暁月に吠ゆ 前篇

※これはRepro5号『ロスト・アイ』に掲載した作品と同じ内容になります。

「暁月に吠ゆ」前篇 鳴向

 

 

「――待て、反乱分子(レジスタンス)!」

人気のない商店街で、警察によく似た制服を纏った管理組織――LASIK(レーシック)――の男が銃を構える。二、三発続けて乾いた音が響き、地面が爆ぜた。

その射線を掻い潜り、セルリアンブルーの瞳を瞬かせた道化姿の少年は、薄く笑った。

「待たない。だって、生きることを止められないから」

反乱分子。それは少年に与えられるレッテルの一つ。瞳に宿る異能を濫用し、平穏を歪める、矯正すべき存在。彼らは少年の皮相をそう呼んだ。

けれど、本当に?

この目に見えるものがありのままの真実であるとは限らないことを、眼に関わる者ならば身を以て知っているはずなのに。

これは反乱ではない。自分は、「生きて」いるんだ。生きるためには、こうするしかなかった。

だから少年は、高らかに宣言した。

この世界に向けて、遠吠えにも似た存在証明を。

「――我ら、虹【彩】の黎明(ザ・デイブレイク・オブ・アイリス)、ここに在り!」

 

 

日が暮れてなお明るい、大阪=ミナミの中心を成すターミナル。そこから延びる通りに並ぶ店々、その中に一軒の新古書店兼レンタルビデオショップがあった。

煌々と白熱光が照らす店内から、バックヤードを通じて、従業員のみが立ち入ることのできる薄暗い地下へ。そこには既に何人かの『従業員』たちが集まっていた。電源の入ったモニターから零れだすブルーライト。青白い光は網膜を刺し、その場に集う彼らの輪郭を明らかにしていく。

暁岐貴虎(あき・たかとら)の姿も、そこにあった。この間高校を卒業し、学生という身分ではなくなったものの、しかしまだ成人ではない彼の丸みを残した頬が闇の中に浮かび上がる。やや痩せ型、身長はその年頃の男性のほぼ平均、よくある濃いめの茶髪。ごく普通の青年に見える彼の、唯一の異彩――その瞳の色が、光を受けて鮮やかに煌めいた。

貴虎だけではない。隣の女も、奥の男も、よく見るとみな目の色が違う。あるいはそれを、コンタクトレンズによって隠している。

目に異彩――異才を宿す、能力者たち。

彼らのような人間は大阪のあちこちにひっそりと存在し、そして秘密裏に、同じ能力者の作る集団によって管理されている――はずだ。

「――始まるぞ。扉を閉めろ」

その声と同時に、モニターに人影が映った。人びとの視線がそちらに集中し、貴虎も顔を上げる。

これから始まるのは、この場で執り行うに相応しい、まさに『地下集会』。

『――やあ、同胞諸君』

画面に映るのは、真っ黒なシルエットのみ。顔も、表情も、見ることはできない。

その声は男。しかし変声器を通している可能性もある。

名前も、顔も素性も、居場所すらも、全てが謎に包まれているその声に、その場の全員が傅いた。

 

『大阪は今日も諸君らにとって住み良い街であるだろうか。――否、それは断じて否である。管理組織(LASIK)を名乗る彼らは、同胞たる我々をこの地に縛り付け、この瞳の能力の使用を制限した。それは何故(なにゆえ)か? 彼らが、自らの既得権益を守りたいからだ。遠く豊臣の時代から受け継がれてきた支配体制に乗じ、自分たちだけの安寧を貪り尽くしたいからだ。――しかし諸君、我々のこの瞳は、天より与えられた我らの財産、才能であり、それを活用しないのは社会に対する大きな損失である。我々には、この能力を自由に羽ばたかせる権利があるはずだ!』

 

同胞よ、と呼びかける声に、その気がなくとも気持ちが揺さぶられる。貴虎は知らず、その手をきつく握り締めていた。彼の言葉は、人の心を捕えて離さない。だから、耳を傾け過ぎてはいけない。

その自制も虚しく、男の声は貴虎の深層に入り込む。暗がりの中で渦巻く、貴虎の記憶――夜、暗い線路、先に進めない自分、弟を負ぶった背中に感じた温もり、そして怒りと切なる望み――そのすべてを掘り起し、受け止め、ボスたる男は言う。

 

『――虹を我が手に! 我ら、虹【彩】の黎明(ザ・デイブレイク・オブ・アイリス)、ここに在り!』

 

「――我ら、虹【彩】の黎明(ザ・デイブレイク・オブ・アイリス)、ここに在り!」

その場の誰もが、自然と復唱していた。

貴虎は誓う。

――いつかきっと、管理組織の手なんて離れて、大阪を出る。そして、弟を両親に会わせてやる。

闇の中、モニターの光に照らしだされた貴虎の横顔は、青白い三日月のように、鋭い決意を宿していた。

それから、と内心に一言付け加える。……ここにいる彼らとは、目的は同じくしているけれども、思想まですべて染まりきってしまってはいけない。彼らの見ている虹と貴虎の求める虹は、きっと別の色をしている。

 

 

「駆、起きろよー」

朝、柔らかい陽光が層を成して降りそそぐ寝室兼リビングで、貴虎は布団の住人に向かって声を掛けていた。

1DKのこぢんまりしたマンションの一室だが陽当たりはよく、布団を敷いた洋間にも容赦なく朝をもたらす。同居人はそれを拒むように、もぞもぞと布団を被りなおしてしまった。

一方の貴虎自身は、歯ブラシを咥えながら、既に着替えの途中である。

「おーい、駆」

「んむー……」

布団の山がもそもそと動き、中から寝惚け眼の少年が顔を出した。貴虎の弟――駆だ。

「んあ、にーちゃ……おはよ……」

「おー。もう朝飯できてるから、早く起きろよ」

駆が身を起こすのを見届けた貴虎は、うがいをしに奥の洗面所へ戻る。その途中でトースターがチンと音を立てた。

ダイニングのテーブルの上にはサラダとスクランブルエッグが並べられていて、駆が席に着く頃には、身支度を終えた貴虎が焼きたてのトースターを皿に載せて待っていた。

駆の椅子の背中には、彼の黒いランドセルがかかっている。貴虎はその横に、洗面所から持ってきた体操着の袋をぶら下げてやった。

「体操着、帰ってきたら、洗面器に水張って漬けとくんだぞ。泥汚れは放っとく落ちなくなるから」

「ん」

「ほら、ちゃんと目ぇ覚ませよ」

昨夜とは違う、柔らかい表情でくすりと笑った貴虎は、駆の頭をくしゃりと撫でた。

「水筒もちゃんと持ってけよ」

「うん」

「今日の晩飯、何がいい?」

「カレー!」

「わかった。でもちゃんと野菜も食えよ」

わしゃわしゃ。

犬か猫でもあやすように、貴虎の手が駆の髪を梳く。

「……もーっ、そんなにしたらごはん食べられないよ、にーちゃ」

「はは、悪い」

名残惜しげに駆をぽんぽんと撫でると、貴虎はテレビのスイッチを入れた。今日の星占い――『目上の人の言うことをよく聞きましょう』。

ふーん、と頬杖をついて、伸びをすると、まどろんだ空気を胸いっぱいに吸い込む。今から出かけて、上司にどんな命令をされたとしても、最後に貴虎が帰ってくるべき場所の匂い。それを忘れないように。

ここにあるのは、目を閉じて身を浸してしまいたくなる安寧。けれどそれは、どうしようもなく欠落を孕んでいて、そのために貴虎は瞼を閉じることができない。

家に他の人の気配はなく、兄弟はここで二人暮らしをしている。それは彼らがここへ来た――来させられたときから、ずっと。

部屋の隅のパソコンでは、両親と話をするためのスカイプが立ち上げっぱなしになっていた。

病気で入院しており、その治療に長じた主治医の元を離れられなかった母と、その母に付き添うため、やはり元々住んでいた場所を離れられなかった父。

貴虎も駆も、彼らのことを恨んではいない。仕方がないことなのだ。

ぱちりと二人の視線が鉢合わせる。

そこに映る互いの瞳の色は、鮮やかなセルリアンブルー。親族の中で兄弟二人だけに発現した異能を示す虹彩、そのために彼らは大阪に住まうことを求められた。

例えそれが幼い子どもの二人暮らしを強いるものだったとしても――大阪にも病院はあるのだから、主治医の元を離れないのは自主的な選択であり、大阪と病院を往復することだって時間と交通費をかければ可能なのだから子どもとともに大阪に住まないのも彼らの選択だ、と、そういう理屈だった。

それが物理的、経済的に可能かどうかではなく、理屈上は。

貴虎は再びテレビに目を戻す。天気予報のコーナーでは、東京のよく晴れた空が映されていた。

空はどこまでも繋がっているのに、貴虎がその空を見ることはない。

「――……」

肺の中を空っぽにするようなため息――を誤魔化すための深呼吸をした時だった。

「あ! にーちゃ、時間!」

駆が飛び上がって時計を指差す。見ると、貴虎はもう家を出なければならない時間だった。

「あー……」

再び駆の頭に手を伸ばして現実逃避しようとする貴虎を、先程まで寝惚けていた駆がぐいぐいと玄関まで押し出してしまった。

「ぼくも学校ちゃんと行くから、にーちゃもお仕事、いってらっしゃい!」

バタン! と音を立てて扉が閉められ、まどろみの世界から追い出されてしまった。貴虎はふぁ、と欠伸をすると、渋々駅へと足を向けた。

 

マンションから駅まではすぐだ。およそ徒歩一分。

切符売り場の上には、この線の路線図が掲示されている。それを辿れば、大阪の外まで簡単に繋がっているのに……。

昨日の地下集会のせいだろうか、妙にナーバスな思考を振り切るように、貴虎はピッと改札に定期券を通してホームへ上がっていった。

沿線の中でも特に高い高架の上に建てられた駅のホームは、少しだけ傾斜していて、夏場にはここから花火を見ようと大勢の人が集まることもある。

そこへ電車が滑り込んできた。大阪の外へも繋がる路線の――けれど貴虎が乗り込んだ電車は、忌むべき大阪の中心地へと、線路通りに彼を運んで行く。

 

 

「らっしゃーせー」

制服の黒いポロシャツを着て、貴虎はレンタルビデオ店のカウンターでレジを捌いていた。

店の中、壁一面に並ぶ映画のパッケージ。それは人を家に居ながらにして様々な場所へと連れ出し、無限の、あるいは夢幻の世界を眼前に映し出す。

その世界への扉を黒い布袋に詰めて、次から次へと手渡していくのが貴虎の仕事だ。

ある意味、自分に似合いの職場だな、と嘆息を一つ。

 

ふと人波がやんだ頃、同じ黒の制服の、ふくふくと太った店員がポップを手に陳列棚の前をうろうろしているのに気付いた。

名札には藤吉、と書かれている彼は――藤吉透(ふじよし・とおる)。貴虎より一、二歳若い、学生のアルバイトだ。

体格はデカいが、ぷくぷくした頬と平安貴族のような細目で、威圧感よりも大きな赤ん坊に似た愛嬌がある。丸い手指は意外と器用で、手にした直筆のポップもなかなかの出来だ。

彼はそのポップを貼る場所を悩んでいるらしい。

ここかな? と藤吉が首を傾げながらポップを翳す、その少し下を、幾筋もの赤い光が通り抜けていく。

それは人の視線。

レーザー光線のように人の視線を視認することが、貴虎の瞳に宿った力だった。

「――トン吉」

だから、貴虎は彼を呼ぶ。

そのあだ名は、別のアルバイト店員が彼につけたのが定着してしまったものだ。聞きようによってはひどく失礼なその呼び名も、彼はにこにこ笑って、受け入れるどころか気に入っているというのだから大したものだ、と貴虎は思う。

今も、作業を中断させた呼びかけに嫌な顔一つせず、彼はどうしました? とこちらへ歩み寄ってくる。ともすれば彼は、貴虎に一番懐いているのかもしれない。

「ポップの位置、さっきの一〇センチくらい下がいいと思う」

「ああ、先輩にはそう『見える』んでふね。了解でふ」

藤吉は素直に貴虎の言葉を受け入れた。

頬の肉に埋もれて普段は見えないが、彼も目の能力者であり、貴虎の言葉の根拠を理解している。その貴虎が示す、最適な場所。ならば従わない理由はない。

ふんふんと鼻歌を歌いながら作業を再開した藤吉を、貴虎も何となく眺めていた。

 

ふと、奇妙な向きの視線が、視界を過った。

それは貴虎にしか見えない光――店内を舐めるように見回した後、隅の監視カメラを捉えて、その視野を確認する。

視線の元を辿ると、どうにも挙動不審な若い男がいた。きょろきょろと辺りを見回しているが、それは単に借りたいDVDを探す動きではない。

彼の目的についてピンときた貴虎は、胸元のマイクでバックヤードに連絡を入れる。

「――姐さん、いま、手、空いてますか」

『んー、トラ、どうしたの?』

聴こえてきたのは、ハリのある女性の声。貴虎をトラと呼ぶその声の主こそ、初対面の藤吉にトン吉とあだ名を付けた張本人だ。

「奥の通路のお客さん、たぶんアレなんで、ちょっと見ててもらえますか。若い男」

『オッケー』

軽快な返事を残し、通信が切れた。

 

その数分後。

「――いてててっ」

「お客サマ~、その手に持った商品、お会計がまだだと思うんですケド?」

件の男が、髪の長い女性店員に腕を捻り上げられていた。彼の鞄からは、レジを通していないソフトのパッケージが覗いている。

男が暴れるのも構わず、女性店員――宵本紫月(よいもと・しづき)、通称『姐さん』は、彼をずるずると事務所へ連行していった。

彼女もまた能力者であるが、その力と関係があるのかないのか、とにかく身体能力で紫月に敵う者は、男性でもなかなかいない。

腕っ節の強さと気風の良さ、そして実際貴虎や藤吉よりも年上であるらしいことが相まって、いつの間にか彼女に『姐さん』というあだ名がついていたのも無理からぬこと。

途中でちらりとこちらを見た紫月は、貴虎と目が合うと、グッと親指を立て、ウィンクを寄越した。

 

「貴虎先輩、お手柄でふね~。もちろん、姐さんもしゅごいでふけど!」

捕り物の一部始終を見ていた藤吉が、すすすと貴虎の側に寄ってきて呟いた。

「……別に」

貴虎からすれば、常に見えているものなのでどうという感慨もない。

瞳の能力は、任意で発動できるタイプのものと、貴虎のように常時視界に現れているものがあるという。

自分で何かアクションを起こした結果ならまだしも、ただ見えているものをそのまま告げただけでどうこう言われても、というのが貴虎の弁である。

そしてそれを、貴虎という人間の特質と結び付けられることが、何となく嫌だった。『何ができるか』ということと、『貴虎自身がどうあるか』ということは別個に成立すると、信じていたい。

さらに言うなら、この能力がなければ――という空想はもう何百回もしたが、不毛なのでとうにやめた。

いま思うのは、能力持ちが「弟だけ」ではなかったのがせめてもの救いだということだ。もっとも、自分だけならばどれほど良かったか、とは常々思っているが。

 

「――あ、エリア長でふ」

藤吉の声でハッと我に返る。

顔を上げた先に、黒いスーツを着こなした男性の姿が見えた。

年の頃は二十代後半から三十代前半。黒髪に、怜悧な印象の黒縁眼鏡をかけ、切れ長の瞳で店内を見回している男の名は黒塚修介。

この近辺の店の運営を統括している「エリア長」という役職で、どこかの店舗に常駐するのではなく、こうして管轄エリアの店舗を巡回・指導するという立場の人間だ。

彼はバックヤードから出てきた店長と何事か言葉を交わすと、貴虎と藤吉の方へつかつかとやって来た。

あ、と貴虎は気付く。

――これは、「あっち」の仕事だ。

隣で藤吉もピンと背筋を伸ばすのが見えた。

「やあ、暁岐、藤吉、ご苦労様。店長にはいま話を付けたが、君らは午後から『外回り』だ。宵本も一緒にな。……別途指示があるから、奥の事務所へ来てくれ」

闇色の瞳に見据えられ、二人は同時に頷いた。その眼が残忍に赤く煌めく時の恐ろしさは、できることなら思い出したくはない。

 

 

「あ、遅ーい!」

藤吉と貴虎が事務所へ入ると、待ちくたびれた様子の紫月が声を上げた。

「姐さん、さっきの万引きおにーさんはどうしたでふ?」

「初犯だったしめっちゃ反省してたから、って店長が帰したよ。だから早く作戦会議しよっ!」

さらりと肩から栗色の髪を流し、二人と、そして黒塚の分の茶を入れながら、紫月がニヤリと笑った。最後に部屋に入り、後ろ手に鍵を閉めた黒塚が、ふむ、と頷く。

「それじゃあ始めようか、我ら虹【彩】の黎明(ザ・デイブレイク・オブ・アイリス)の作戦会議を――」

 

その一言で、レンタルビデオ屋の事務所が『地下』に変わる。地面の下に根を下ろし、地表の果ての、虹の根元を求めてその腕を伸ばす者たち。

藤吉も、紫月も、貴虎と同じこの組織の一員だ。

そして表ではエリア長を名乗る黒塚は、この付近一帯の組織構成員をまとめる存在でもある。

「今回君たちに頼みたいのは、この人物の持つUSBメモリを奪うことだ」

そう言って黒塚が一枚の写真を取り出す。映っているのは、冴えない印象の中年男。

「彼は今日の夕方、必ず戎橋付近を通る。それについては調査済みだ。――そのタイミングを狙って、胸ポケットに入れているUSBメモリを盗み出してほしい」

黒塚の長い指が、男の胸元をとん、と突く。そして、切れ長の瞳が貴虎を捉えて告げた。

「このデータが入手できれば、大阪の防壁を破り、外に出るチャンスが来るかもしれない」

「……っ」

貴虎は、黒塚に対して並々ならぬ恩義がある。そもそもこの店で働いていることだって、地下組織に入れたのだって黒塚のおかげだ。彼が悪い人でないことも知っている。

この言葉は彼なりの鼓舞であり、貴虎を割と贔屓目に見ているからこそこういうことを言ってくるらしいことも、最近分かってきた。

しかし、どうすれば自分が動くかを完全に掌握されているのが、急所である首根っこを押さえられている感じがして、どうにも居心地の悪い思いがするのだった。

 

こちらを見つめてくるその目の色は、否応なしに、彼と出会った夜のことを思い出させる――。

 

 

がたごとと闇夜を切り開いていく電車の中で、数年前、まだ中学生だった貴虎は弟の駆を抱き締め、ぐっと息を殺して車両の連結部分に潜んでいた。

駆の体温は普段より高く、いちばん酷かった時と比べて落ち着いたとは言え、本当なら家で安静にしていなければならない状態だ。額に貼った冷却シートも、すっかり温くなってしまっている。

それでも、貴虎は何としても駆を連れ出して――大阪から出してやらねばならなかった。

――熱にうなされた駆が、貴虎の袖を引いて、「おかーさんにあいたい」と言ったから。

幼いその唇から、今はぜいぜいと苦しげな吐息が零れている。

駆はまだ小学生だ。

それなのに、貴虎と二人だけで大阪に越してくることになってから一度も、寂しいだとか、両親に会いたいだとかいう願望を口にすることはなかった。

そもそも彼らが大阪を出るためには膨大な手続きが必要で、しかもそれを経てすら、出て行けるとは限らない。先例は、極めて少ない、例外的なケースのみ。

兄弟がそこに当て嵌まる可能性は、吹けば飛ぶ塵芥ほどにしかなかった。

「にーちゃといるの、たのしいよ」と駆は笑う。

けれど、寂しくないわけがないのだ。本当は両親の元で暮らしたいに決まっている。優しい駆は、高熱にうなされ、意識が朦朧としてやっと、本心を口にした。

その願いすら叶えてやれないなんて。

――こんなの、間違ってる。

その怒りと駆への想いに突き動かされて、貴虎は電車に忍び込んだのだった。

 

連結部の広くなったスペースの死角に身を縮こまらせて、何度目かの車掌の巡回をやり過ごす。

緊張で手のひらが湿っていた。

車内はガラガラで、暗い景色を透かす窓には、自分の顔が映り込んでいる。

もう少し、あと少しだ。

鼓膜を刺す警笛が響き、大阪を離れる最後の駅を、ついに出発する――と思われた瞬間だった。

急にバタバタと複数の大人たちが乗り込んでくる音がしたかと思うと、

「――違反者はそこです!」

という、車掌の声。

視線がレーザービームのように貴虎と駆の周りを取り囲んだ。管理組織は、こちらの動きをとうに把握していたらしい。

「――っ!」

咄嗟に駆を抱えて飛び出した貴虎は、二人を捕まえようと目の前に迫っていた男に頭突きを食らわせ、一目散に先頭車両へと駆け出した。

何があるわけでもない。

ただ、少しでも前へ――その一心だったのだと思う。

次の男には肩からタックルをし、その奥の男を蹴とばして、先へ――、

「がっ!?」

客に紛れて座席に座っていた男に急にラリアットを当てられ、息が詰まる。

そのまま側頭部を殴られ、床に投げ飛ばされた。

せめて駆を守るように抱き締める。その背にさらに浴びせられる蹴り。

「……ぐっ、げほっ! がはっ……!」

「おい、早よ袋被せて目ぇ塞げ!」

その言葉と同時に、視界が奪われ、駆の身体が引き剥がされた。

「っ、やめろ! 駆に触るな! 駆っ、駆……!」

闇雲に手足を振り回す貴虎を、誰かの足が踏みつける。

「大人しくしろ!」

「ぐぅ……っ」

どうして、こんな仕打ちを受けなければいけないのか。

自分たちの何が悪かったというのだろう。

ただ少し、目が普通と違う風になってしまっただけ。

それだけのただの子どもで、だから普通に、両親を恋しいと思い、弟の願いを叶えてやりたいと思う――そんなことがどうして、これほどまでに踏みにじられなければならないのだろう。

「かけるッ、駆……!」

何も見えない。

声も聞こえない、手も届かない。

自分たちの幸せだけでは飽き足らず、大事な弟までもこの手から奪おうというのか。

だとしたら自分は彼らを、そして世界を――許さない。

そう思った時だった。

 

「――グワッ!」

貴虎を取り囲んでいた男の一人から悲鳴があがった。続いて、二人目、三人目も倒れる音がする。

「……急にLASIKが集まってきたかと思えば、こういうことか」

そして聞こえたのは、怜悧な男の声。

緩んだ拘束の下で、顔に被せられていた袋を脱ぎ捨て、顔を上げる。

光を取り戻した貴虎の視界に現れたのは、黒縁の眼鏡を光らせるスーツ姿の若い男だった。

「チッ、なんだお前は!」

貴虎を踏みつけていたリーダー格らしい男が、唾を撒き散らして問う。

「――名乗るほどの者でもないけれど、聞かれたからにはお応えしよう。我ら、虹【彩】の黎明(ザ・デイブレイク・オブ・アイリス)、ここに在り!」

高らかに響く存在証明。

雨上がりの空を彩る虹の名を冠するその集団は――

「……レジスタンスか!」

貴虎の上の男が呻いた。

「ご名答」

ニッと口の端を吊り上げたかと思うと、黒縁眼鏡の下で男の瞳が色を変えた。

「ギャッ!」

彼と目が合った瞬間、貴虎を捕えていた男がもんどりうって倒れる。

気付けば、貴虎を追ってきた男たちは全員彼によって倒されていた。

「……っ、駆!」

貴虎は、すぐ側に転がされていた駆ににじり寄る。縋りつき、ぎゅっと抱き締めると、すうすうと寝息が聞こえて少しだけ安堵した。

「クソッ!」

遠くから様子を見ていた車掌が、携帯で何事か叫びながら駅構内の方へ走りだす。

きっと彼は能力者の管理組織に通じている。逃亡を図った罪で貴虎を捕まえるため、追手をかけるつもりなのだろう。

「君は――」

弟を抱き締める貴虎に、眼鏡の男が声を掛けた。

「君は、此処から出ることを望むか。こんな空を、ぶち破ってやりたいと思うか」

貴虎は、彼にとっては災厄の源である、空のように澄んだセルリアンブルーの瞳で男を見上げた。

男の問いかけは、先ほど貴虎の心の中に浮かんだ強い願いと同じ。だから、意を決して、貴虎は一つ頷いた。

「そうか、ならば――」

男が目線を向けた先で、応援を呼びに行こうとしていた車掌が倒れる。

「――我々と一緒に、この眼の呪縛から逃れよう。独りで逃げてもすぐに捕まる。共に来るなら今回のことも上手く誤魔化せるし、時間はかかるが、俺たちはきっと君と弟を自由にしてあげるよ」

その言葉は、打ちのめされた貴虎の心に、未来へと至る七色の橋を架けた。

――恐らく彼は、能力者を大阪に縛り付けるものとして『眼の呪縛』という言葉を使ったのだろう。しかしその言葉は貴虎の中に、複雑に反響して深く沈んでいった。もしかしたら彼のこの言葉こそが、貴虎の最後の一歩を押したのかもしれない。

そして、管理組織の男たちに踏みつけられた貴虎の手が、虹【彩】の黎明(ザ・デイブレイク・オブ・アイリス)の一員たる男に向かって、そっと伸ばされたのだった。

(続)