雨傘 後篇

「雨傘」  後篇   鳴向

 

私は、学校から帰るのとは逆の道を歩いていた。どんどん町から離れていく。下草の生い茂る道の先に続くのは、学校の裏手にある、崖。この雨の降り続く町の果てであるそこを目指して、私は黙々と足を動かしている。

 

「どこ行くの?」

もう少しで辿り着くというとき、木陰から不意に現れたのは、あの傘を持たぬ青年だった。前と同じ黒づくめの彼は、前と同じように今日も濡れそぼっている。そしてそのことを気にする素振りもない。

「私、気付いたんです。誰よりも傘の色のことを気にしてたのは私なんだなって」

自分が黒い傘の持ち主だったかもしれないという可能性に怯え、彼の身に起こることを全て己の身に置き換えて引き受け、何もすることができない歯痒さに勝手に傷付き。本当に傘の色によって傷付けられている彼よりも、傘のない世界に憧れていた。

母は、「信じている」と言った。

それは何を? 私が傘に黒を持つ人間だということを? 私がこの傘を捨てたいと思っていることを?

そんなわけない。

あなたに傘の柄は見えていたかもしれない。でも、それが私の心の全てだと思っていた?

「外の世界に行きたくなった?」

私の後をついて歩きながら、彼は笑みを浮かべる。

あの黒い傘こそが私を縛り、引き留めていた。でも今はもうどうでもいい。私は、私の黒色に飲まれてしまおう。

「そうですね。こんなもの、なくなってしまえばいいのに」

辿り着いた崖の縁に立つ。下は靄が立ち込めていて、何も見えない。真っ白な闇。

「じゃあさ……」

「それじゃあ、さようなら」

彼が何か言いかけていた気がしたけれど、もうどうでもよかった。

この雨の町で育った私に、外の世界なんて存在しない。たとえあったとしても、きっと私はそこでは生きていけない。だからこれで、すべて終わり。

私は靄の中に身を投げた。

 

一瞬の浮遊感の後、ぐいぐいと白い闇の奥底に引き込まれていく。私はうっとりと目を閉じる。

「ちょっと待って!」

そのまま眠りに落ちようとするのを妨げる声が響いた。落下する感覚の中で、私の手を捕えた、もう一つの手。そっと目を開くと、必死の表情を浮かべた彼がいた。

「駄目だ! 諦めたら、駄目」

彼は手を伸ばし、傘を持っている方の私の手も掴む。

「傘を、開いて。ここで」

「!」

私は思わず目を見開く。

ここで傘を開いたら、傘の中に彼も入ってしまう。

傘の中は、私だけの世界だ。他人をその中に入れるなんて、あり得ない。

「君は、僕の話した外の世界のことを信じてくれたんだよね? だからここへ来た。そうでしょ?」

私の手を掴む力が強くなる。深さを増していく白い景色の中で、私を射抜く彼の黒い瞳だけが鮮明だ。

「ねえ、あと少しだけ僕のことを信じてくれないかな。もし君が僕のことを殺したいほど嫌いでないというなら」

黒は、異端だ。

それなのに私は、その色に心を奪われ、気持ちを寄せずにはいられない。それは私もまた黒を持つ者だからなのか、それともこの心性こそが薔薇を黒く染め上げたのか、判断がつかない。

私はそっと、傘に手を伸ばす。

「信じます、あなたのこと。だから、私を自由にしてくれますか?」

 

ばん、と音をたてて傘が開いた。瞬間、落ちていくばかりだった体が急にふわりと浮き上がるのを感じた。柄を握り締める私の手を、上から彼の一回り大きな手が包み込む。そこから流れ込む体温が、ずっと冷え切っていた私の体を指先から温めていく。触れられそうなほど近くにある黒い瞳に目を奪われ、何も考えることができなくなる。

体も、心もふわふわとしてぼうっとしてしまっていた私に、彼が「見て」と囁いた。彼の視線を追うと、ずっと視界を覆っていた靄が晴れ、眼下には白い砂浜と、エメラルドグリーンを湛えた海が広がっていた。

雨は、降っていない。

海の青を鏡に映したような、どこまでもどこまでも透明で青い空が、ゆるやかに世界に横たわっていた。

「これが、傘のない世界」

彼と私は、ふわりと砂浜に着地した。乾いた砂の感触に驚いた私は、足を取られ、盛大に転んだ。その拍子に、傘が私の手を離れ、転がる。

「あ……」

傘からは、柄が失われていた。黒い薔薇は消え去り、透明になった傘は向こう側の景色を映しだしていた。

「これで、君は自由?」

眩い光が降り注ぐ中に立ち、彼は私に笑いかけた。手を引いて助け起こされ、私ははにかむ。

「ありがとうございます」

雨の音は消え、代わりに寄せては引く潮の音が私を包みこむ。私は、太陽の光を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

*****

 

「君、何をしている!」

砂浜に沿って続いている堤防の上から、人の声がした。こちらに向かって走ってくるのは、紺色の制服に身を包んだ警官だった。私が驚いて身を竦めている間に、背後で砂を蹴る音。振り返ると、さっきまですぐ側にいた彼は脱兎のごとく駆け出していて、あっという間に見えなくなった。

「逃がすな! 追え、追えー!」

警官は彼の後に続いてやって来た他の警官たちを怒鳴りつけると、ぐるんと向きを変え、大股で私に近付いてきた。私はただ唖然としてしまって、何が起こっているのか理解がまったくついていかない。

「君! ……はっ、いかん!」

何か言いかけた警官は、しかし私の横に転がる透明な傘を見て息を呑んだ。慌てた様子で胸ポケットからサインペンを取り出すと、私の傘を取り上げた。

「ちょっと、何するんですか」

彼は私の問いには答えず、傘にでかでかと「被害者」と書いた。

「な、なんてことするんですか!」

彼から傘を奪い返すと、私は袖で擦ってその文字を消そうとした。けれどあっという間に乾いてしまったその文字は、こびりついて取れそうもない。

「君の方こそ、なんてことをしたんだ。傘が透明になったら、君は死んでしまうんだぞ!」

「え?」

警官の鋭い目が私を刺すように見る。

「君は雨降る町の人間だろう? 町を出たからといって君の体に刻まれたルールが帳消しになるとでも思ったのか」

足から力が抜け、私はぺたんと座り込んでしまった。

「そんな……」

「君が一緒にいた男は、この都市で最も悪名高い泥棒野郎だ。君の傘の柄も、奴に盗まれたのだな」

私の手を離れ、再び傘は砂浜を転がる。

「彼は、私を助けてくれたんです。傘の柄は、気付いたら消えてて……」

警官は波に攫われそうになった傘を拾い上げ、憐れむように丁寧に畳んだ。

「君は、奴が傘に触れている間、一瞬たりとも傘から目を離さなかったか?」

「……」

見て、と囁く彼の声が、耳元で蘇る。あのとき、初めて見た雨ではない景色に、私は間違いなく目を奪われていた。

「かわいそうに。きっと君の柄はもう戻らない。たとえ奴が捕まったとしても」

警官が私に、綺麗に畳まれた傘を手渡す。

「だがね、君、どうしてよく知りもしない男を傘の中に入れたんだい?」

その言葉も、潮騒も、私の耳には届かなかった。ただ、ざあざあと体をめぐる水の音がうるさくて、うるさくて、私は。

 

気付けば、目の前が真っ赤に染まっていた。水平線に沈む夕日が、私を刺す。ぼたぼたと血を流す私の心すらも、容赦なく。

手の中に残った透明の傘では、何も遮ることができない。

私はふらふらと立ち上がった。

 

堤防の向こうには街が広がっていた。雨の町とは比べ物にならないような、大きな街。ビルが立ち並び、車が行き交う。

そこには、人と同時に、黒い薔薇が溢れていた。

花屋の店先には、所狭しとバケツに詰め込まれて売られている。街灯の下では、待ち合わせをしていたらしい男性が、後からきた女性に黒薔薇の花束を渡している。喫茶店のテラスでは、子どもが飾り用の花をむしゃむしゃと食べている。もちろん、黒い薔薇を。私の前を通り過ぎて行った女性の鞄には、黒い薔薇の模様があしらわれている。街頭モニターでは、黒い薔薇の花が咲くイメージが繰り返し流れている。

黒い薔薇が、流れ、拡散し、消費されていく。

私の心が。

デパートの屋上から、黒い薔薇の花吹雪が舞い、地面に散る。

それが、踏みにじられる。

盗んだのは、彼。

私は無我夢中で、目の前の花屋の店員に縋り付いた。

「お願いです、黒い薔薇を返してください! これは私のものなんです!」

店員は迷惑そうに私を引きはがして言った。

「元はあなたのものだったかもしれないですけど、もう広まっちゃってますし、これは私が正当に買い取って売っているものなんで、そういうのやめてくれませんか?」

営業の邪魔なんで、どいてくれませんか、と言われ、私は店を後にするより他になかった。

 

『外の世界ではみんな傘なんて差してない。だから、傘の柄なんて見ずに、目と目だけを見て話をするんだ』

『ねえ、あと少しだけ僕のことを信じてくれないかな。もし君が僕のことを殺したいほど嫌いでないというなら』

『だがね、君、どうしてよく知りもしない男を傘の中に入れたんだい?』

 

雨の音が聞こえない。水の循環は途切れ、巡っていた水は零れてしまった。

降りしきる雨が鉄格子の檻のように感じたことがあった。日が落ち、空には星が瞬いている。流れ星が、闇に包まれた世界を斜めに横切っていった。足元には萎れた黒い薔薇が転がっていて、ここでは雨は降らない。

 

 

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