雨傘 前篇

「雨傘」  前篇   鳴向

 

ざあざあと音がする。

絶え間なく続く、巡り巡る水音。空から降るそれは川を作り海に注ぎ、やがて空に還りまた降る。

循環する水。それに囲われた、小さな私の世界。

 

仄かに差し込む光に瞼が震え、私は朝が来たことを知る。その事実をなかったことにしたくて、布団を頭からかぶり直した。

すると頭の中でいっそう激しくなる水音。これは私の中を流れる水。ぐるぐるりと取り囲まれた水から、逃れられない。

はぁ、とため息を一つ零して、布団を跳ね退ける。カーテンを勢いよく開け、広がる鈍色の空にまたため息が出る。ここでの空は、ずっとこの色だ。

「今日も雨」

紗幕を掛けたように向こうの方まで景色が煙って見える。窓ガラスに当たった水滴が、灰色の世界を斜めに横切っていった。私はそれをまるで流れ星みたいだと思った。

階下から母の呼ぶ声がする。

夜はもう明けていて、ここでは星は見えない。

 

「いってきます」

母に見送られ、家を出る。さわさわと降り続く雨。濡れた空気に身を浸し、私は傘を開いた。等しく地面を叩いていた雨が、傘の下のこの空間だけ切り取られる。

ここは私の世界。小さくて、雨から守られた私だけの世界。

その世界の天頂に広がる傘の文様は、それを持つ人の心を表すと言われている。私のは、白地に黒い薔薇。大人っぽいと言われたこともあるけれど、私はこの柄があまり好きではない。それでも、一人一本、傘を持たねば暮らしていけぬこの地で、傘を捨てようとすることは思いもよらないししようとも思わなかった。

学校へ向かう一歩を踏み出すと、足元でちゃぷりと水が跳ねた。

 

道すがら、騒がしい人の声に顔を上げる。きゃんきゃんと騒ぐ、私と同じ学生たちの声。四、五人が集まり、道の端に一人を追いやって何事か言い募っている。これは、いつもの光景。

「お前、学校来んなよ」

「陰気なんだ」

「傘もそんな色で」

「気持ち悪いんだよ」

「帰れよ」

赤、青、黄、花柄、格子柄。

鮮やかな傘たちが詰め寄る先には、黒。真っ黒な傘の男の子が、身を縮めて言葉の嵐が過ぎ去るのをじっと待っている。

黒は、異端だ。

黒い傘は不吉とされる。だから黒い傘の子どもはいじめられる。彼はいつもびくびくしながら、けれど黒い傘を手放すこともできずに、まるで人生そのものが嵐で、その嵐に耐えるかのように生きている。

「ねえ、そこ通りたいんだけどな」

彼らの手前で足を止めた私は、困ったような声を上げてみせた。いじめっこたちは私を一瞥すると、黒い傘に向かって「ばーか」と吐き捨て、駆けて行った。一応、見つかると怒られることは分かっているのだ。色とりどりの傘が逃げて行くのを見詰めていた黒い彼は、私に一つ会釈をすると、ゆっくりと彼らの後を追い、歩き始めた。

私は、何も義侠心からこんなことをやっているわけではない。

手にした傘をくるりと回すと、嫌でも目に入る黒い薔薇。あの子がいなければ私が嵐に巻き込まれていたかもしれない。だからこれはちょっとした同情、仲間意識、罪滅ぼし。

馬鹿げている。

こんな傘の柄で自分の心が表されているなんて。

「馬鹿げてる」

唇に乗せた音は雨粒に吸い込まれ、地面に落ちた。

 

*****

 

帰り道、私は寄り道をした。普段ならまっすぐ家に帰るところを、少し遠回りして、近くの公園を通って帰ることにしたという、それだけのこと。がらんとした公園にも糸のような雨は降り注ぎ、複雑な水たまりの文様を地上に描いていた。

そこで私は、変な人を見た。

公園の大きな木の下で雨宿りをしている、男の人。いや、そういう行為があるというのを知識上知っていたから「雨宿り」と表現したけれど、ここではそんなものは存在しない。なぜなら、いつまで待ったって雨はやまないのだから。

その人は、傘を持っていなかった。この町の人間で傘を持っていないなんてあり得ない。よく見ると彼はすでにびしょ濡れで、黒い前髪の先からぽつりと雫が滴った。年の頃は私よりも少し上の、二十歳くらいだろうか。真っ黒のジャケットと細身のズボンも、水を吸って重そうだ。

ふと、彼と目が合った。雨音が遠退く。夜の闇のようにすべての光を吸い込んでしまう漆黒の瞳が、私を捉える。

黒は、異端だ。

目を逸らさなければ、関わらないようにしなければと思うのに、叶わなかった。

「君、この町の人?」

彼が私に向かって話しかけてきた。黒い瞳に、私を映して。

「あなたは、傘を持っていないんですか」

私は両の手で傘を握り締める。

これは、私の世界。この中には誰も入らない、入れさせない、私だけの世界。私の秘密。

「そうだよ」

傘を持たぬ彼の言葉が、私の傘の中に飛び込んでくる。

「あなたは外の人なんですか」

一歩、彼へと近付いてみる。雨が私と彼との間に降る。それは彼と私を隔てるようでもあるし、またこの異端の触れ合いを隠してくれているようでもあった。

「そうだね。この丘……麓の関所から高度を増していき、宅地が立ち並ぶ先の頂に学校があって、その裏が崖になっているこの、雨がやまない丘の外のことを君が外と呼んでいるなら、僕は『外の人』だよ」

「……?」

怪訝な顔を表に出してしまっていたであろう私に、彼は笑いかける。

「ほら、外と言ってもいろいろあるから。だって、そうだろう? 君の家の外という意味だったらこの町の人間だってほとんどが『外の人』だし、君のその傘の外という意味だったら、この町の人も、僕も、君以外の全ての人間が等しく『外の人』だ」

彼の面倒くさい、理屈っぽい物言いに私は思わず噴き出した。

「変な人」

「君もね」

私たちは顔を見合わせて笑った。変だから笑うなんて、初めてだった。私はいつでも自分が異端の淵にいることを恐れていたし、周りもまた、私の傘を見てそういう話題を私に向けることを避けている節があったから。

「ねえ、ずっと傘を持っているのって不自由じゃないの?」

彼が私の傘を指差した。

「さあ……ずっとこうだから、分からないです」

「そう。ねえ、それちょっと僕に貸してよ」

ずいと身を乗り出されて、私は三歩後ずさった。

「だ、駄目です! 絶対、駄目」

彼はきょとんとして首を傾げる。

「傘の中は、世界なんです。私の傘は、私の世界。だから簡単に人に貸したり、中に入れたりすることはできません」

そう告げると、彼は、ふうん、と少しつまらなさそうに答えて、それから両手を広げた。

「傘なんて、なくても生きていけるのに」

「……え?」

「外の世界ではみんな傘なんて差してない。だから、傘の柄なんて見ずに、目と目だけを見て話をするんだ」

そう言って彼はまた、じっと私の目を見た。息苦しいくらい、動悸がする。

「外に、行ってみたいと思わない?」

急に、傘に当たる雨が勢いを増す。より強く私たちを閉じ込めようとしているかのように。

それを受け止める黒い薔薇は、けれど異端の片鱗でしかない。本当に傘のない世界を必要としているのは。本当に異端なのは。私ではない。

「きっと、私よりも助けが必要な人がいるはずですから」

私は傘を傾け、彼の視線を遮った。これ以上会話をしてはいけない。

「失礼します」

小さく頭を下げ、小走りに公園を後にした。彼が追ってくる気配はない。ばちゃばちゃと響く足音に、私は何から逃げているのだろう、と思った。

 

*****

 

次の日の朝、私は道端に転がっている黒い塊を見た。それはいつもの黒い傘のあの子だった。一瞬ぎくりとして足を止めたが、塊がもぞもぞと動いているのに気付いてほっと息を吐き出した。いじめっこたちに突き飛ばされるか何かして、転んだのだろう。彼の黒い傘も手元に落ちている。服はぐっしょりと濡れていて、頬の擦り傷から血が滲んでいた。

「はい」

私は鞄から絆創膏を取り出し、彼に差し出した。震える小さな手がそれを受け取る。彼は水たまりに映る自分の姿を見ながら、ぺたりと絆創膏を貼り、私に一つ会釈をした。目は伏せられていて、見下ろす私と交差することはない。

「ねえ」

ひっくり返り、雨粒を受け止め続けている黒い傘に向かって、私は口を開く。

「外の世界では傘がなくても生きていけるんだって」

ざらざらと雨脚が強くなる。まるで私の言葉を掻き消そうとしているかのよう。

「傘がなくても生きていけるなら、傘の色のせいで辛い目に遭うこともない。そんな世界が、外にはあるんだって」

彼は顔を上げない。

「外って、どんなところなんだろう」

落ちてくる雨が視界に無数の線を引く。色のないそれが、鉄格子の檻のように見えた。

 

私はそのまま彼を置いて学校へ向かった。同情はするけど、それ以上のことはしない、できない。

授業が終わり、ホームルームの時間。先生が言う。

「えー、この町に外の人間が入り込んだという噂があります。みなさん寄り道をせず、まっすぐ家に帰ってください。もしも不審な人物を見かけたら、すぐに逃げ、学校や警察に連絡してください」

もうあの人のことが町に広まっているのか、と頬杖を付きながら聞いていた私は感心する。

「みなさん、くれぐれも話しかけられたりしないように」

はっとして先生の顔を見るが、先生の目線は違うところを向いている。どうやら私のことを言ったわけではないようだと、胸を撫で下ろす。

はいはーい、と教室の隅から手が上がった。

「先生、外の人間が来たらなんで駄目なんですか?」

先生はくいと眼鏡を指で押し上げ、ふむ、と唸る。

「外の人間はどんな良からぬことを考えているか分かりません。昔には我々の持つこの大切な傘を奪いに来る輩がおり、何人もの町人が犠牲になったと言います。今は厳重な関所ができたためそういったこともなくなりましたが、私はみなさんにそんな目にあってほしくないのです。自分の傘の色を活かした、素敵な人生を送ってほしいのです」

最後の一言に、私はひっそりと眉を顰めた。

 

家に帰ると、母が出掛けるところに鉢合わせた。学校に呼ばれたのだという。母は私に留守番を言いつけると、誰が来ても家から出ないようにとなぜか念を押してから出て行った。

急に学校からの呼び出しだなんて。

何となく嫌な感じがする。雨どいを伝って落ちる水滴の音が妙に癇に障って、私は布団を頭から被り、早々に眠りに就いた。

 

明くる朝、母は何事もなかったかのように私を起こし、送り出してくれた。昨日のことに関して、母は何も言わなかった。私も、何も聞かなかった。

ただ、玄関を出ようとした私に一言だけ。

「信じてるからね」

と言う声が聞こえた。私はそれに振り返らなかった。

学校への道のりで、今日は誰とも会わなかった。ただ今日も視界には黒い薔薇が舞っていて、それを雨粒が打つ音は変わらなかった。

 

学校に着いてから、なんだか教室のざわめきがいつもよりよそよそしいような気がして、私は首を捻る。気のせいだろうか。

隣の席の人が消しゴムを落とした。足元に転がってきたそれを拾おうと手を伸ばすと、まるで私が触れるのを厭うかのように、私より早く、慌ただしく当人が掠め取っていった。そして以降、私と目を合わそうともしない。

雨音が嫌に耳につく。それともこれは、教室のざわめきだろうか。私の中を巡る、どろどろとした水の流れの音だろうか。

その日、私は誰と話すことも、目を合わせることもなく一日を終えた。私は普段通りにしていたのにも関わらず。

 

帰り道。また、いじめっこ集団と黒い傘のあの子に出会った。黒い傘に向かって囃し立てていた子どもたちは、私を見るなり、今度は私に群がってきた。

「うわあ、スパイおばさんだ」

「ほんとだ、悪い人だ」

「おばさんに捕まったら、傘を取られて食べられちゃうってほんと?」

「お母さんが近付いたらだめって言ってた!」

「やばいやばい、逃げようぜ」

子どもたちはばちゃばちゃと水たまりを蹴り上げて私に水を掛けると、蜘蛛の子を散らすように走り去っていった。けらけらと笑う声が、姿が見えなくなってからもまだ耳の奥に残っている気がする。

ぽたりと、私の前髪から雫が落ちた。水に濡れた指先から、急に体が冷えていく。黒い傘は微動だにせず、私はそれをじっと見下ろす。

雨の降る音が、今はノイズのように聞こえる。どこかにある筈のクリアな世界を遮り、私たちに覆いかぶさるノイズ。そのせいで私も、この子も傷ついているのではないのか。

傘の柄を握り締める私の手は、血の気が引いて白くなっていた。

「喋ったんだ、私のこと」

返事はない。ただ、びくりと小さな傘が揺れた。少年が恐る恐るといった風に顔を上げる。

「外は、だめだよ」

どんなにいじめられても泣くことのなかった彼の瞳が、今は泣きそうに歪んでいる。そのことにどんな意味があるのか、私には理解できなかった。

「外には、何もないよ」

ただこの子が私とは違う考えなのだということだけは分かった。私が向けていたのは身勝手な同情だ。それでも、この子を助けることで自分も助かりたいと思っていたのに、この子はそれを必要ないと言う。

なんで。

どうして。

私はこんなにも助かりたいのに。

「ムカつく」

私はそれだけ言うと、踵を返しその場を後にした。

 

後篇