指先は空を掻く 前篇

「指先は空を掻く」   前篇 鳴向

 

1.

 

何も見えない。

何も分からない。

上も下もなく、ただ波間を揺蕩うようなふわふわとした感覚だけがあった。

遠くから声が聞こえる。悲しそうな、若い男の人の声。何度も何度も、同じ言葉を発している。

「――ま、えま。えま」

人の名前だろうか。

恋焦がれるように、希うように、彼は名前を呼び続ける。

気付けばその声に引き寄せられていた。声はもう随分近くから聞こえる。

そして、急にザブンと海から引き上げられて息を吸い込むように、私は一気に覚醒した。

 

「ああ、よかった! 気が付いたんだね!」

眩しい視界に飛び込んできたのは、美しい青年だった。見覚えのない顔だったけれど、声には覚えがあった。

「絵真、絵真……! 本当によかった……」

私をここへ導いたあの声に間違いない。

青年はふかふかのベッドに寝かされていた私を抱き起こして頬ずりをしてくる。まだ脳と身体がうまく繋がっていないみたいにぼんやりしている私は、されるがままになりつつ、辺りをぐるりと見回した。

レースのカーテン越しに白く清潔な光が差し込む、大きな部屋。私は隅のベッドに寝かされていて、少し離れたところに小ぶりの机がある。全体にこざっぱりした印象の設えだ。

ふと視線を感じて顔を上げると、ちょうど正面の壁に掛かっている姿見の中から黒髪の女がこっちを見ていた。

私が右手を上げると、女は左手を上げる。私が首を傾げると、女も首を傾げた。

ああ、あれが私だったのか。

背中まで届くような長い黒髪の二十歳前後の女は、気の抜けたぽやんとした瞳で視線を宙に投げていた。

 

思う様私を撫で回していた青年が、ようやく少し落ち着いたのか私から手を離して、今度は目を合わせてにっこりと笑った。栗色の髪がきらきらと日に透ける。

「絵真が目覚めなかったらどうしようかと思っていたんだ。こうやってまた僕の目を見てくれるのが、本当に嬉しい」

絵真、と彼は私を見詰めながら口にする。

私に向かって呼びかけるその言葉が私の名前なのだと、やっと思い至った。

「あなたは――……」

私のことを知るあなたは、誰なの?

 

問おうとしたそのとき、部屋のドアがガチャリと開いて、人影が覗いた。

「あ! 起きた!」

私を見て歓声を上げたのは、鏡に映った私にそっくりな外見の女の子だった。少し違うのは、彼女は黒髪の毛先にウエーブをあてていることと、ナース服のような恰好をしていること。

彼女はぱたぱたと駆け寄ってくると、戸惑う私に笑いかける。

「絵真、おはよう! 私のこと分かる? あなたの双子の妹の、絵夢だよ」

「絵夢……」

まるでデータを引き出すみたいに、脳が「えむ」を「絵夢」と認識する。

「そう、絵夢だよ。ちゃんと私のこと分かるんだね、嬉しい!」

にこりと笑うと、絵夢は私の傍らの青年に向き直る。

「もう、絵真が目覚めたらすぐに呼んでって言ったじゃない! 私、先生を連れてくるから、このまま待っててね」

言うが早いか彼女は踵を返し、部屋から出て行った。

先生とは、誰だろう。

記憶を辿ろうとしたが、それを遮るように青年が私の髪を撫で、囁く。

「大丈夫。何も心配することはないんだよ」

二度、三度と髪の毛を梳かれ、じっと目を見詰められる。導かれるように頭の中に一つの言葉が浮かび、私は知らず、それを口にしていた。

「『荘一くん』――」

すると彼は、花がほころぶように笑った。

 

しばらくして、絵夢とともに白衣を着た初老の男性が部屋に入ってきた。この人が「先生」だろうか。絵夢と荘一くんのことは頭の中の引き出しにあったようだけど、この人のことは何も出てこないので、少し不安に駆られる。

「こんにちは、絵真さん。気分はどうですかな」

先生は柔らかい声で、口元に皺を寄せて笑った。すごく、いい人そうな雰囲気だ。

「絵夢、検温と血圧測定の準備を」

先生の指示にはい、と答えて、絵夢はてきぱきと検査の準備をしていく。やっぱりナース服だけあって、看護師さんなのだろうか。

荘一くんは少し離れた机のところに座って、じっとこちらを見ている。

「絵真さん、身体の調子はどうですか。少し、手を握ったり開いたりしてみてください」

ベッドの脇の丸イスに腰を下ろした先生に言われたとおり、手をグー、パーと動かしてみる。

「ふむ、こちらは異常なさそうだね。じゃあ、次、意識の方はどうですか?」

「意識って……」

さすがにこれだけ記憶が混濁していれば、自分がただならぬ状態なのだということに察しはつく。

「ああ、説明は後でしますから、先に確認を。この二人の名前は『思い出』せましたか?」

そう言って先生は部屋にいる二人のことをちらりと見遣るので、私は一先ず頷く。

「絵夢と、荘一くん……です」

 

絵夢と私は双子の姉妹で、荘一くんはお隣の男の子。私たちはよく三人で遊んでいて、幼い頃からお互いの家を行き来する仲だった。どちらの家も両親は忙しい研究者で、私たちが大きくなった今ではもうほとんど家に帰ってこない。絵夢はずっと昼間は町の診療所で働いていて、そこのお医者さんが目の前にいる「先生」だ。

 

「――ああ、よかった。これなら大丈夫」

先生がそう言うまで、次から次へと記憶が引き出されていった。丸暗記した教科書の中身のような、文字記録のような記憶だったことに少し違和感を覚える。

さて、と言ってにこりと笑うと、先生は姿勢を正して私に向き直った。

「では説明しましょうか。どうか、落ち着いて聞いてくださいね。絵真さん、あなたは目覚める前、不幸な事故に逢い、生死の境を彷徨ったのです。そして残念ながら身体の損傷が酷く、助けることができませんでした……今のあなたは、脳以外全てが機械の身体なんですよ」

「――!」

身体の機械化は、今となっては珍しいことではない。サイボーグの技術の進歩で、本来ならば助からない病気や怪我でも生き永らえることができるようになったし、また機械化した身体の情報処理能力を活かして仕事に就く人もいるという。

けれど突然自分がそうなるとは、予想していなかった。

「驚かれるのも無理はないでしょう。今はまだ、記憶に混乱が見られるかもしれません。けれどそれは一時的なものです。あなたの意識が身体に定着すればそういったこともなくなるでしょう。どうしても気になるようなら私の病院で改めて検査をしますから、いつでも気軽に、絵夢に相談してください」

先生はそう言ってもう一度私に微笑みかけた。人の好い笑みに、少しだけ不安が軽くなる。

「……分かりました」

「では、絵夢、検査が終わったら病院へ。私は先に戻りますからね」

立ち上がり、ベッドの傍を離れていく先生の声が遠くに聞こえた。

ほうと息を吐き出すと急に眠気が纏わりつく。

「絵真……?」

枕元でさらりと絵夢の髪が揺れる気配がする。

「疲れたよね。眠ってていいよ。少しずつ慣れていけばいいからね」

その言葉を聞きながら、私の意識は夢の中に沈んでいった。

 

2.

 

朝、私はいつも目覚ましより少し早く起きて、まず一番に隣で眠る彼の頬にキスをする。寝汚い彼はそんなことでは目を覚まさないから、これは私だけの秘密の楽しみ。リビングダイニングに敷いた布団に二人で眠るのは少し窮屈だけど、これはこれで、小さな幸せを噛み締めてるという感じがして嫌いじゃない。

狭い布団を抜け出して伸びを一つ。それから手早く身支度をして、朝ご飯の用意を始める。味噌汁と目玉焼き。それから炊き立てのご飯。

出来上がる頃には、匂いにつられて彼が起き出してくるから、早く顔洗ってきてね、と笑う。

雨戸をあけると、小花柄のカーテンから春色の光が差し込む。

今日もいい天気だね、と振り返るとそこには――。

 

 

「おはよう、絵真」

目の前には、整った荘一くんの顔があった。思わず、何度か瞬きを繰り返してしまう。

「お……はよう」

ふ、と意識が身体に戻ってくる感じがして、今夢を見ていたのだと気付く。身じろぎをする自分はもこもことした掛布団が盛られたベッドに寝ていて、真っ白いレースのカーテンがかかった窓から朝日が差している。私はまだこの部屋から出たことはなくて、台所がどこにあるのかよく思い出せない。

「よく寝てたね。今日は起きられそう?」

優しく笑いかける荘一くんの声に、夢の内容は急速にぼやけていく。

あれはなんだったんだろう?

私がまだぼんやりしていると、ついと目の前にコップが差し出された。

「白湯なんだけど……飲める? 絵夢が言うには、飲み食いは支障ないってことだったんだけど」

心配そうな表情になる彼に、慌てて笑顔を作って、コップを受け取る。

「ありがとう。いただきます」

そっと口に含んだ水は、あっという間に身体に染み渡っていく気がした。思ったよりも喉が渇いていた。

コップを空にしてしまうと、荘一くんがそれを受け取って、それから手を差し出した。

「?」

「もし大丈夫そうなら、家の中だけでも、ちょっと歩いてみよう? 慣れたら一緒に外に出掛けたりできるようになるから」

それが待ちきれない、という風の彼の言葉に、一も二もなくその手を取った。

 

部屋のドアの向こうには廊下があって、突き当りには下り階段。私がいたのは二階の部屋だったらしい。荘一くんに手を引かれながら、階段を一歩ずつ降りていく。

身体は機械だと言われたけれど、私の意志に沿って動かすことにさほど違和感はない。

一階はリビングと水回りで、やはりレースのカーテンから射し込む光が眩しかった。

 

ドアを潜ろうとしたとき、ぐいと後ろから引っ張られたように感じて、きゃ、と声を上げてしまった。

振り返ると、ドアの蝶番のところにに私の髪の毛の先が引っ掛かっていた。それを見てくすりと笑った荘一くんが、そっと絡まった毛先を解いてくれる。

「ありがとう」

「大丈夫? まだちょっと慣れないかな」

気遣う視線が少しこそばゆくて、誤魔化すように髪を梳いた。

「まだ、ちょっと」

さらさらと流れる黒髪は綺麗だったけれど、こんなに長いと手入れが大変そう、という気持ちが勝ってしまう。

「慣れないな」

一体自分は何を思って髪を伸ばしていたのだろう。ショートカットの方が好きなのにな。肩を撫でていく髪の毛の感触に首をひねったが、もっと身体が本調子になったら美容院にでも行こう、と一人結論する。

「絵真、こっち」

リビングのソファの方から荘一くんの声がする。呼ばれるがままに歩を進める私の背で、長い黒髪がゆらゆらと揺れた。

 

ぼんやりと過ごしている内に日が落ち、帰宅を告げる絵夢の声がした。

「すぐ晩ご飯の用意するから、待っててね」

そう言って絵夢は台所へ消える。

私も何か手伝いを、と思って立ち上がるけれど、隣で荘一くんが微動だにしないのを見て、これが日常なのだろうか、と思い直す。

絵夢が帰ってくるのが七時過ぎであることや、荘一くんが私たちの方の家でご飯を食べること、夜は十二時前に眠ること。

そういう、決まりごとのようなものは少し思い出せてきたような気がする。けれど、言葉にならない習慣やなんとなくなされてきたことに関しては全く分からない。身体的な記憶が失われてしまっている、ということではないのか。

これが身体を機械化したことによるものなのだろうか、私には分からない。

絵夢から少し説明してもらったのだが、機械の身体になるときに脳を一部ネットワークに接続するのだそうだ。それを利用して自身を機械の延長として使うことができるようになる人もいるという。

けれどその方法は、ネットを介したウイルス感染などの危険性もある。

そこで、私の場合は絵夢が作った狭い独自サーバーとだけ繋がっている。こうすることで、自分をコンピューター代わりにネットを利用したりすることはできないけれど、ネットの脅威からは身を守ることができている、らしい。

要するにただの人間とそれほど大差ないということだ、と絵夢は言っていた。

ネットに繋がらないただの私の情報源は絵夢と先生しかないのだから、それを信じるしかない。漠然とした不安はあったが、絵夢の晩ご飯ができたという呼び声でそれもすっかり霧散してしまった。

 

食卓に並んでいたのは、湯気のたつハンバーグだった。

「本当は、もっと豪勢にお祝いできたらよかったんだけど」

絵夢はそう言ってはにかんだ。

けれど私の頭の中には、絵夢がなぜこのメニューを選んだのかを示す情報が浮かんでいた。

ハンバーグは絵真の好物だ、と。

「嬉しいな、私のために作ってくれたんだ」

絵夢は私にフォークとナイフを手渡すと、食べて食べて、と急かした。そっとナイフを入れると肉汁が溢れ、デミグラスソースに絡めてから口に運ぶ。

「おいしい!」

思わず声を上げると、絵夢と荘一くんもほっとした様子を見せた。

「絵真の好みは相変わらず子どもっぽいね」

荘一くんが笑うけど、だって好きなんだもん、と返すしかない。

絵夢が笑う。

それから団欒が始まった。

 

ハンバーグをぺろりと平らげた私に、絵夢が口の端をちょんちょんとつついて見せる。

「?」

「ソース。ついてるよ」

くすくすと笑う絵夢に、慌てて指差された場所を拭う。指についたソースをぺろりと舐めると、不意に、既視感を覚えた。

舌の上に蘇るのは、今よりも少ししゃりっとしていて、あっさりした風味。

そうだ、私が好きだったのは――。

「ねえ絵夢、今度はおろしハンバーグ作ってほしいな」

私のその言葉に、びしりと場の空気が止まった気がした。

目を丸くした絵夢と、笑みが消え、信じられないものを見たような顔になる荘一くん。

「え……と」

そんなにまずい言葉だったのだろうか、これは。

「――え、絵真はそんな食べ方も知ってるんだね! 検索したのかな、機械の身体ってやっぱりすごいね。今度やってみるよ」

取り繕うように絵夢が笑う声が妙に寒々しく響く。

荘一くんは黙ったまま。

「あ、絵真、お風呂が沸いたから先に入ってきたら?」

絵夢に促され、風呂場へ続く戸を潜った。

リビングからは二人の話し声が聞こえたけれど、何を言っているのかまでは聞き取れなかった。

風呂から上がった時には、あの変な空気はすっかり消えていて、私はそのまま眠りについた。

 

3.

 

「『彼女』の調子はどう?」

早起きの鳥の囀りを潜り抜け朝の診療所へ顔を出した絵夢に、先生が問う。まだ診療の始まる前の院内はひっそりとしていて、二人の他に人影はない。

「日常生活に支障はなさそうです。ただ――」

「ただ?」

「絵真は、私が作ったことのない料理を食べたいと言いました」

絵夢は落ち着かない様子で髪を弄ぶ。

「先生、今度こそ、大丈夫ですよね? お人形じゃない、荘一くんと、私たちと一緒に生きてくれる絵真ですよね?」

目尻の皺を深くして、先生はゆっくりと頷く。

「大丈夫だよ。彼女には魂が宿ったのだから、きっと、大丈夫」

 

 

朝起きると、今日は川へ行こう、と荘一くんが言った。私たちの家の近く、歩いて十分もかからないくらいの所に大きな川があって、その川原で昔から三人でよく遊んでいた、という記憶がある。

外はいい天気で、昼からは少し暑くなりそうなくらいの陽気は確かにピクニックに向いているかもしれない。絵夢が買っておいてくれたお昼のパンを鞄に詰めて、私は初めて家を出た。

家の外は閑静な高級住宅街で、同じような外観の家がゆったりと並んでいる。

日の光、温度、町の音。

肌に触れるそれらすべてが新鮮で、私は大きく息を吸い込んだ。

隣で荘一くんが笑う気配がした。

 

青々と草が茂る川原の隅で、私たちは腰を下ろした。

「ねぇ、絵真。この川原でお花見したのは楽しかったよね」

のんびりと荘一くんが口を開く。

川面に白い大きな鳥が舞い降りた。鷺だろうか。

「桜が舞ってたんだけど、一瞬すごく強い風が吹いて。そしたら絵夢が頭から花びらまみれになっちゃって。すごく面白かったんだ」

私たちが毎年花見に来ていたことは思い出せる。

ただ、そんなに詳細なエピソードは、私の記憶の引き出しにはなかった。花びらをあっちこっちにくっつけて泣きそうになっている絵夢の姿を想像して、くすりと笑いがこみあげてくる。

絵夢は先生の助手として働いているし、私のこともなにかと気に掛けてくれてしっかりしているように見えるのだけど、どこか抜けているというか、一生懸命なのに貧乏くじを引いてしまうタイプなんだろうな、と思った。

「絵真とまたここに来られてよかった」

そよぐ風に乗せて、荘一くんの呟きが届く。

「絵真が初めて僕を外に連れて来てくれたんだ。それがこの川だったんだ」

こちらを見て微笑む荘一くんの柔らかい笑顔に、一瞬どきりとする。

「家から一歩も出ることのなかった僕を外に連れ出してくれたのが君だったんだ。『怖いなら私の後をついてくればいいわ』って言って」

川面で翼を休めていた鷺が、ばさりと大きな音を立てて翼を広げた。

荘一くんは、それよりももっと遠くを見詰めながら、いろいろな昔の話をしてくれた。

私の記憶にない私の話をする荘一くんは、一体、誰を見ているのだろう。

日差しは暖かかったはずなのに、どことなく寒気がした。

 

それから、石切りをしたり、足先だけ川に入ったりして遊んでいたらあっという間に日が傾き始めた。

「そろそろ帰ろうか」

荘一くんの言葉で私は川から上がる。

そのとき、ふと鼻先を記憶が掠めた。

 

甘い香り。

金木犀の花の香りが風に乗って舞う。

川辺にいた私を引き上げる、少し大きな男性の手。

しょうがないな、という風に笑う彼は、もう一方の手に持っていた季節外れのタンポポの綿毛をふうと私に吹きかけた。

やだ、やめてよ、と私も負けじとやり返し、二人で声を上げて笑いあう――。

 

「どうしたの?」

荘一くんの声ではっと我に返る。

彼に歩み寄りながら、少し私にも思い出せる記憶があったことに嬉しくなって、今のことを問うてみる。

「ねえ、ここって秋には金木犀が咲くよね? 私たち、その頃にもここに来たことあった、よね?」

すると荘一くんは、晩ご飯の後のときのように、急に表情を失い、私を見返してきた。

「秋は寒いからいやだって言って、絵真はここに来たがらなかったよ」

冷たい声でそれだけ言うと、帰ろう、と私の手を取った。荘一くんの手は私とほとんど変わらない、華奢な手だった。

無言のまま、ただ歩く帰り道。

赤黒く染まる夕暮れの町は、まるで私の知らない土地のようだった。

手を引かれて歩くこの道は、本当に私の家に続いているのだろうか。

朝、私はこの町の空気を新鮮だと感じた。

私は本当にここにずっと住んでいたのだろうか。

「これ」は、本当に私なのだろうか。

繋いだ手の感触はリアルなのに、自分という存在が全てから遊離していくような気がして、ぞっとする。一歩進むたびに不安は膨れ上がっていったが、いつもと雰囲気の違う荘一くんに話しかける気にはなれなかった。

 

やがて家に着き、荘一くんが思い出したように、そういえば今日は絵夢が遅くなる日だったね、と呟いた。

「じゃあ、ご飯、私が作ろうか?」

朝ご飯を作っている夢を見てから、ずっと包丁が握りたくてうずうずしていた私は、先程までの違和感を忘れて思わずそう口にしていた。

すると荘一くんはきょとんとして、どうして絵真がそんなことするの? と首を傾げた。

「どうしてって……じゃあ、今まで絵夢が遅い日はどうしてたの?」

「絵夢が帰ってくるのを待ってたらいいんだよ」

事もなげにそう答えてリビングで寛ぎはじめる彼に、理解が追いつかない。

「なんでそうなるの? それじゃあ、私たちは何をするの?」

何故、と口にすると、今まで意識していなかった疑問が次から次へと湧き上がってきた。

「そもそも、私たちはどうやって生活していたの? 絵夢はお仕事してるけど、荘一くんはずっと家にいるのはなんで? 私は今まで何をしていたの?」

振り返った荘一くんが不思議そうに微笑む。

「僕たちは両親からもらったお金で暮らしていけてるでしょう? 絵夢は駄目な子だから、あんな所で働かされているだけだよ。絵真は何も気にしなくていい。絵真は、ずっと僕と一緒にいればいいんだよ」

その微笑みに、もう薄ら寒さしか感じない。

夕暮れの帰り道に見た影が辺りに立ち込め、私を連れて行こうとしている気がした。不安が抑えられない。

「ねえ、何かおかしいよ。私の記憶がないのはなんで? あなたたちの話とは違う記憶があるのは何故?」

荘一くんの顔から笑みが消える。

「私は本当に『絵真』なの?」

 

「――絵真はそんなこと言わない!」

酷い剣幕で荘一くんが怒鳴った。

「絵真、絵真! 戻ってきて、絵真!」

荘一くんが私に飛びついて、肩をがくがくと揺さぶる。

狂ったように連呼される、絵真という名。

「絵真、絵真!」

「違う、その名前で私を呼ばないで!」

こめかみの辺りがずきずきと刺されるように痛む。

脳裏に浮かぶのは『絵真』の記憶にない風景ばかり。

狭いマンションの部屋。

味噌汁のいい匂いがする台所。

首筋を掠める風の感触。

頬を撫でていくたんぽぽの綿毛。

私の名前を呼ぶ声。

身体の全てが、自分は「絵真」ではないと主張している。それに反発するように「絵真」の情報が脳に流し込まれてくるが、受け付けられない。

酷い吐き気がする。

「私は、私は……絵真じゃない!」

目の前で恐ろしいものを見るように立ちすくむ荘一くんに言葉を投げつけると、ぐらりと身体の重心が揺れた。

私は絵真じゃない。

――じゃあ、私は誰……?

胃の中のものがせり上がってくる。

涙で滲んだ視界に浮かぶ顔。

今まではずっとはっきりと思い出せなかったその顔が、やっと、靄が晴れたようにはっきりと見えた。

「――……××くん……」

自分が何者なのかはもう分からない。

ただ自分を自分たらしめていた、彼の名前だけは思い出せてよかった。

そう思った瞬間、全身を引き裂く痛みが走った。頭の先から万力で押し潰されていくよう。

どこかに身体を酷く打ち付けた気がしたけれど、もう前後左右も分からず、ただひたすらのたうちまわる。

聴覚が恐ろしい音に塗りつぶされたと思ったらそれはどうやら自分の口から出ているらしい。

頭蓋の中に響き渡る自分の絶叫を遠くに聞きながら、ぶつんと意識が途切れた。

 

後篇