指先は空を掻く 後篇

「指先は空を掻く」   後篇 鳴向

 

4.

 

日が落ち、辺りが闇に包まれる時間。差し込む月明りは弱く、全てのものの輪郭が曖昧になる。

「お大事に」

絵夢の声に見送られ、最後の患者が診療所を後にする。

そのまま表の戸を閉め、「本日の診察は終了しました」と書かれた札をかけると、絵夢は裏庭の方へと歩を進めた。

町外れの一軒家という風情の診療所の裏にはちょっとした林と、その奥に池が続いている。

絵夢は庭の隅にぽつんと建てられたプレハブの物置を開けた。バケツや箒、枝切鋏など、庭仕事の道具が雑多に詰め込まれている中に、一つ、異質な大きな袋が紛れていた。

人間が一人分入りそうなほど膨らんだ真っ黒な袋は口が固く締められていて、中に何が入っているのか外からでは全く見えない。

絵夢はそれを躊躇うことなく物置から引きずり出し、背負った。

そのままずんずんと林の奥を目指して進んでいく。夜の林には月光も届かず女の独り歩きには到底相応しくない道だったが、絵夢は気にした様子も見せないまま、ついに池のほとりまで辿り着いた。

池の周りでは木の生え方が少しまばらになっており、枝の隙間から星が覗いていた。

足を止めた絵夢は空を見上げる。暗い池の傍に佇むその姿はまるで幽霊だ。

一つ息をついた絵夢は、水面に向き直ると、背中の荷物を袋ごと水に投げ入れた。

どぽん、と重い音が響く。

こぼこぼと空気を吐き出しながらゆっくりと沈んでいく影を、絵夢は眉一つ動かさないまま、能面のような表情で見詰めていた。

 

袋が完全に沈み切り、水面に波紋一つなくなったのを見届けると、ようやく絵夢はその場を後にして、来た道を辿り始めた。

何事もなかったかのように診療所に戻ってきた絵夢は、身支度を整え、挨拶をすると帰路についた。

そのときふと、建物のすぐそばにある共用スペースに貼られた張り紙に目を止めた。近づいて携帯電話の光をかざす。

『行方不明人探しています 見かけたらご連絡を!』

赤字でそう書かれた下には女性の写真が印刷されている。ショートカットの女性が満面の笑顔でこちらを振り返っている、よく撮れた写真である。きっと心を許した身内にしか見せない表情に違いない。家族か、友人か、恋人か。そんな写真が使われているのだから、彼女のことを大切に思う人が作ったものなのだろう。

「……」

絵夢はしばらくその張り紙を眺めていたが、ふいに手を伸ばしたかと思うと、それをびりびりと破り捨てた。細切れの紙片はポケットにねじ込み、そのまま振り返りもせずに立ち去った。

 

家に着いた絵夢は、一瞬足を止めた。

玄関にも、部屋にも電気が点いていない。

絵真と荘一がうたた寝でもしていて、たまたま点け忘れているだけならいい。しかし、胸騒ぎがしてやまない。

とにかく中に入ろうと玄関扉に手をかけたとき、中から声が聞こえた。

「絵真はそんなこと言わない!」

荘一のただならぬ怒声だった。

嫌な予感ほど当たるものだ。

慌てて家の中に飛び込むと、今度は二階から耳を劈くような叫び声が響いた。

「絵真……!」

荷物を放り投げた絵夢は、声の元へと駆けた。

 

「絵真、絵真……!」

階段を駆け上がり絵真の部屋の戸を開け放つと、真っ暗な部屋の中で、荘一が絵真を抱きしめながら泣き喚いていた。

「絵真! 絵真!」

気が触れたように絵真の名を呼び続ける荘一に一瞬言葉を失った絵夢は、ハッとして彼の腕の中のものの様子を見るが、彼女はまるで人形のように、ピクリとも動かない。目や口、あらゆる部分から彼女を維持していた液体が流れ出していて、すでに手の施しようがないことは明らかだった。

「彼女」の魂は、もう見つからない。

完全に消滅してしまったのだ。

「荘一くん……」

部屋の入り口で立ちすくんでいた絵夢が辛うじて絞り出した声に、荘一がゆらりと顔をもたげた。

「絵夢」

闇に慣れてきた目で捉えた荘一の表情は、涙でぐちゃぐちゃの顔で目だけが血走っていて、さながら幽鬼のようだった。

「絵夢……絵真が動かないんだ」

荘一は譫言のように呟きながら、よろよろと絵夢ににじり寄る。

「絵真が、返事をしないんだ。絵夢、ねぇ助けてよ……ねぇ、絵真を助けて!」

助けて、助けてとすがりついてくる荘一を見下ろしながら、絵夢は一番初めの『絵真』が失われた日のことを思い出していた。

 

幼い絵真と絵夢、荘一がいつも遊んでいた高台の公園。

そこに続く階段の上から、絵夢は茫然と下を見下ろしている。

階段の下には、小さな手足を投げ出して倒れたまま動かない絵真。

その傍で、絵真の名前を呼びながら錯乱状態に陥っている荘一。

真っ青に晴れた空が嘘みたいに綺麗で、遠くに鳥の囀りが聞こえていた。

 

あれはもう十数年も前の話で、絵夢が呼んできた先生の手によってすら、あまりに幼すぎた絵真の魂は呼び戻すことができなかった。

絵真が失われたことを嘆き狂う彼に与えられたのは、絵真によく似た人形だった。

身体の機械化に使うサイボーグの技術を応用して、先生は人形を絵真のように動かしていた。それは限りなく絵真に近くとも人形で、歳をとったり、成長したりすることはない。定期的にメンテナンスと称してボディを作り変え、なるべく人間に近い状態にしていたとは言え、それを司っていたのはプログラムである。

大人である絵真など、本当はどこにも存在しない。

 

家に帰ったとき聞こえてきた荘一の言葉。

『絵真はそんなこと言わない!』

きっとそれが、決定的に「彼女」を壊してしまったのだろう。身体と精神が完全に齟齬を来し、拒否反応が起こったのだ。

「彼女」を否定してなお、中空に「絵真」の名を呼び続ける荘一の姿を、絵夢は力なく見遣る。

「――ねぇ、貴方は誰を求めているの?」

 

5.

 

「――先生」

診療時間の過ぎた真っ暗な病院の脇を抜けて、隣接している先生の自宅の戸をくぐる。合鍵は、病院の手伝いをするようになったときに渡されていた。何かあったら来なさい、と渡された鍵を使って、絵夢はたびたびこの家を訪ねる。先生はもうそこそこの歳だというのに、未だに独り身で気ままに暮らしているので、気兼ねすることは何もない。

勝手知ったる様子で家の中を歩いていくと、夕食後はよく本を読むという彼の背中を、案の定書斎で発見することができた。

部屋の壁は一面が書棚になっていて、奥の方に、入り口から背を向けるように机と椅子が置かれている。読書に集中できるようこの向きにしたのだと、いつか語っていたことを思い出す。

「先生」

その背中に、部屋の入口からそっと呼びかける。

「どうしたんだい、こんな時間に」

先生は驚いた風もなく、背を向けたまま絵夢の声に応えた。

「お願いがあるんです」

「うん?」

強請り方は先生が教えてくれた。

ぺたぺたとその背中に近づくと、後ろからするりと腕を回し、身体を寄せる。ぎゅうとその首筋に顔を埋めて、先生にだけ聞こえるように囁いた。

「絵真を直して、先生」

ぱたりと本を閉じた先生の大きな手が、絵夢の指先を捕まえた。

 

「絵夢はなぜそんなに絵真にこだわる?」

咎める風ではなく、純粋な疑問として発せられた問い。

「絵真がいなくちゃ、私は認めてもらえない。絵真がいて初めて、私は存在できるの」

絵夢は回した腕に力を込め、ぽつりぽつりと話した。

 

絵真よりも少し遅れて生まれたそのときからずっと、絵夢の前には絵真がいた。両親はいつも出来のよかった絵真のことを目にかけていて、絵夢のことはおまけのように扱った。名前を呼ばれるときは必ず、「『絵真』、絵夢」。双子と仲良くしてくれていた隣の男の子――荘一は、絵真と手をつないで、振り返ってから言ったのだ。

「絵夢『も』おいでよ」。

 

それはほんの出来心だった。

絵真がいなくなれば、両親も、彼も、一番に自分の名前を呼んでくれるのではないかと、思ってしまった。

だから、三人で遊んでいるとき、誰にも気付かれないようにそっと絵真の背中を押した。

高台の公園に続く階段の上で。

気が付いたときには、ぐんにゃりと人形のように動かなくなった絵真と、彼女の名前を呼びながら泣き叫ぶ彼が眼前にあった。

「ねえ、」

彼に声をかけた。

「ねえ、荘一くん。荘一くんってば」

耳元で呼んでも、肩を揺すっても、彼は一心に絵真の名を呼び続けるばかりで絵夢には見向きもしてくれない。

まるでここには絵真と彼しかいないかのように。

絵夢など初めから存在していなかったかのように。

「――――」

さあっと世界から音が引いていくような気がして、そこでやっと理解する。

絵真がいなくなって、自分の名前が呼ばれるどころか、誰も自分の声に応えてくれなくなってしまった。

絵真がいてこそ、その影に自分は存在できていたのだ。

絵真がいなくなっては自分の存在に意味はない。

――もう一度彼に名前を呼んでもらうためには、絵真を生き返らせなければ。

そうして、絵真の名を呼び続ける荘一に背を向け、腕利きだと近所で有名だった先生の家の扉を叩いた。

「先生、絵真を――私のお姉ちゃんを助けてください」

 

先生と公園に戻ったとき、そこにはさっきと変わらない、壊れたレコードのように絵真の名前を呼び続ける彼と、壊れた人形のように動かない絵真の姿があって、あれは夢や自分の妄想ではなかったのだと思い知らされた。

先生の「大丈夫だからね」という言葉だけが、意味のあるものとして理解できた唯一だった。

結局絵真は助からなかったが、絵真によく似た人形を絵真として扱うことになった。

その後先生と両親の間でどういう話が持たれたのかは知らない。

ただ両親はやはり「絵真は、絵真は」と言い募っていた。

彼は人形の絵真を本物と同じようにこよなく愛し、表面上は元に戻ったように見えた。

そして自分は先生の診療所の手伝いとして働くことになり、今に至る。

 

「そうだね。絵夢はよく働いてくれているよ」

そう言って先生は私の背を撫でる。

先生に触られるのは嫌じゃない。

絵真がどうしたとか、私は存在するのかとか、そういうことが全部後ろに吹き飛んでいって世界にダイレクトに触れている感じがするから。

絵夢、と呼ぶ先生の声に、脊髄で反応する。

 

でも、ふわふわした足取りでシャワーを浴びている途中に、夢が覚めるようにさぁっと我に返る瞬間がくる。

これは、まやかしだ。

私は絵真を通してしか存在できない。

私が私になれるのは、荘一くんが私を見てくれたときだけ。

「おいで」と彼が伸ばしてくれた手だけが、「絵夢」の世界の全てだ。

彼じゃない手が私に触れた、ということにどうしようもない嫌悪感が湧き上がってきて、吐き気がした。

「う……」

全身を虫が這うような感覚が走って鳥肌が立つ。えずく声が掻き消えるようシャワーの水圧をあげて、水が全部を洗い流してくれることを祈りながら、床にへたり込んだ。

 

 

彼女のシャワーが長いのはいつものこと。

リビングで椅子に凭れ、微かな水音を拾いながらコーヒーを啜る。

水音に嗚咽が混じっているのも、いつものこと。

先生、先生と自分を呼ぶ絵夢の声を思い出しながら掌を見詰めた。

彼女が求めているのがこの手でないことには気付いている。でも、彼女の求めるものは、きっと一生手に入らない。

妥協でもいい、現実逃避でもいい。

彼女が初めて自分のところへ来た日のように、すがりつくように手を伸ばしてくれたら。

止まない水音に思いを馳せ、祈った。

 

 

どれくらいぼんやりしていただろう。

肌を滑っていく水滴の感触で、不意に遠のいていた現実に引き戻された。濡れた髪が身体に張り付いて気持ち悪い。

シャワーの水音に紛れて、「絵真」の絶叫が耳の奥で谺している。

あれは、存在の断末魔だった。

一人では存在も許されない自分が、確かにそこに存在していた人を、殺してしまった。

身体だけでなく、魂まで。

私なんかには許されない罪を犯してしまった。

こんな望まれない存在が、望まれていた誰かの存在を奪ってしまった。

許されない。

自分の存在は許されない。

耳元で「彼女」が囁く。

許されない、許さない。

急速に息苦しさが募り、息を吸い込む音がやけに大きく聞こえる。

掌は、絵真の背を押したときの感触をまざまざと思い出させる。

頭の底でわんわんと「彼女」の絶叫が響く。

許さない、許さないという怨嗟の声が四方八方から絡みつき、ざあざあという音はシャワーの水音なのか、身体を巡る血流の音なのか。

わからない。

視界が遠のき、緑色の空に星が瞬いた。

階段の上から落ちるような浮遊感。

かと思うと、一転、赤――。

絵真の血の海に溺れた。

 

 

がたん、と大きな音が風呂場から聞こえて、腰を浮かした。その向こうにいるであろう姿を想像して、駆けつけるのに一瞬躊躇する。が、杞憂ならばそれでいい。席を立ち、控えめに風呂場の戸を叩く。

「絵夢……?」

返事はない。

思い切って扉を開けると、その先にはただざあざあと水を流し続けるシャワーがあり――絵夢が倒れていた。白い肢体から流れるように絡みつく黒髪が血のように見え、慌ててその身体を抱き起す。

「絵夢、絵夢!」

肌は冷え切っていたが、呼吸はある。ひゅう、ひゅうと引き攣るような浅い息が口から漏れている。

「大丈夫、大丈夫だからね」

抱きしめる手に力を込めて、ゆっくりと背中を擦る。

「大丈夫だよ」

「……せん、せ」

薄く目を開いた絵夢が、喘ぐように唇を動かした。

「うん」

震える手がこちらへ伸ばされる。

「たすけて」

「うん」

初めて絵夢と出会ったときと同じように、その小さな手をぎゅっと握る。

「大丈夫だからね」

絵夢の頬に、ぽろりと一雫、涙が伝った。

 

落ち着いた絵夢をリビングのソファに座らせ、温かいミルクを差し出す。

頭から被ったタオルの下の髪はまだ濡れたままだったが、頬には微かな赤みが戻っていた。

「ありがとう、ございます」

マグカップに口をつけ、小さく息を吐き出した絵夢の頭を撫でる。

「君の伸ばす手は、君という存在の発する最後のSOSだったんだね」

望む人たちから認められず、自分自身ですらも認められなかった絵夢という存在が、消えてしまう瀬戸際のところで最後の助けを求めて伸ばした手。

それが自分に向けられたことを、嬉しく思う。

「もう、絵真を直すのはやめにしよう」

弾かれるように顔を上げた絵夢と目を合わせる。

「君は絵真がいなくても、荘一がいなくても、絵夢として生きていいんだ」

震える彼女の手を、包みこんで握る。

「許すとか、許さないとか、そういう話じゃない。君は確かにここにいる。そして、私の手を求めてくれただろう?」

絵夢の瞳が揺れる。

長年ずっと自分のことを否定し続けてきた彼女には、酷な話かもしれない。

だが、決めていたのだ。

彼女がもう一度私に手を伸ばしてくれたら、そのときには必ずこの話をしようと。

 

「絵夢、結婚しよう。誰が君のことを認めないとしても、自分のことを信じられないとしても、法律が、制度が君を認めてくれる。君が――絵真ではない、絵夢こそが私の唯一だと、確かに認められるんだ」

はらりと、絵夢の両の瞳から涙が零れた。

「……先生」

「急にこんな話をして、ごめんね」

ふるふると首を振る絵夢の頬に手を添え、涙を拭ってやる。

「絵夢」

確かにここにいる、愛しい名を呼ぶ。

「……う」

濡れた睫毛を伏せた絵夢は、口元を覆い、肩を震わせた。その薄い肩を抱き寄せると、とうとう堰を切ったようにわあわあと泣きはじめる。

「絵夢、絵夢」

背中を撫でながら、何度でも名前を呼ぶ。

細い腕で縋るようにしがみつきながら零す声はまるで、赤ん坊が生まれて初めて上げた産声のようだった。

 

 

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