汐の音 -the murmuring of the sea- 第一話 後篇

「汐の音 -the murmuring of the sea-  第一話」 後篇 鳴向

 

 

町のスピーカーから七つの子が流れ出す夕暮れ。水緒は海に向かう通りを歩いていた。その足元では、白く小さなシーズー犬がせっせと足を動かしている。

「風が気持ちいいね、ダイゴロウ」

リードを引きながら話しかけた水緒に応えるように、犬が一声鳴いた。

ダイゴロウは、水緒が幼い頃拾ってきた犬である。もう十年近く一緒に暮らしているので、犬としてはそこそこ高齢のはずだ。くん、と鼻を鳴らして、ダイゴロウが立ち止まった。

「どうしたの?」

水緒が振り返ると、ダイゴロウは道端に咲いたたんぽぽの周りを、ふんふんと言いながらくるりと回った。

「ほら、ダイゴロウ、行くよ」

水緒がリードを引くと、ダイゴロウはぱっと水緒の方を見、慌ててとことこと駆けてくるのだった。ダイゴロウの気性は大人しく、人に向かって吠えたりもしない、水緒の言うことをよく聞く利口な犬だった。

ふと、潮の匂いが強くなった。

その瞬間だった。

きゃんきゃんきゃん!

何もない空間に向かって、ダイゴロウが突然吠えはじめた。めちゃくちゃに吠えたかと思うと、うーうーと唸りながら歯を剥き出しにして威嚇する。

「だ、ダイゴロウ!? どうしちゃったの?」

ひとしきり吠え立てると、ダイゴロウはリードを持つ水緒を引きずる勢いで走りだした。

「きゃっ、ま、待って……!」

犬は、水緒を連れたまま、海へ至る道を尋常でない勢いで駆けて行った。

 

*  *  *

 

ホースの先端を押し潰すと、水がふわりと広がって、木々の間に虹の橋を架ける。拓海はそれを見てふっと目を細めた。

泪と拓海の暮らす屋敷の庭に植わった木への水遣りは、いつからか拓海の役割になっていた。物言わぬ草花と水を通して対話しているように思えるこの時間が、拓海は好きだった。

冬を過ぎ、新緑が顔を出し始めている。季節の巡りと共に繰り返される、命の循環。そこに感情はなく、あるのは自然の摂理、ただそれだけ。

――では、この命は。

用の済んだホースを巻き取りながら、拓海は海の方へ視線を向ける。繰り返し育まれ続けてきた人魚の血を持つ命には、何があるというのか。終わりはあるのか。

「――ふう」

考えても答えの出るような問いではない。ホースを片付けると、拓海は軽く頭を振って、家の中に戻ろうとした。

その時だった。

ふと、辺りに潮の匂いが満ちた。

はっと顔を上げた拓海の視界には、夜の帳に飲み込まれんとする夕日の、血のように赤い残光が閃く。周囲のものが音を失くし、そして――。

耳の奥底に響くのは潮騒。

手招きをするように、寄せては返す波のイメージ。

暗闇の中で、出口を失い谺する声。

「……呼んでるのか? 俺を」

ぐっと胸を締め付けられるように感じて、拓海は思わず服の胸元を強く握る。しかし焦燥感は一層激しくその背を焼く。びりびりと体を巡るのは、人の血か、それとも人魚の力か。

「――っ」

次の瞬間、拓海は、見えない何かに急き立てられるままに走り出した。

 

*  *  *

 

「よっ……と」

通学鞄の他に、道着を入れたサブバッグを肩に掛け、泪は帰途についていた。もう日は落ちかかり、じわじわと夜が迫っている。

「思ったより遅くなっちゃったな」

時々柔道部に呼ばれては、練習で相手をちぎっては投げ、ちぎっては投げを繰り返している。

強くならなくては。

その思い、あるいは予感のようなものが、泪の中で渦巻いている。そして、思いの先にあるものは――。

幼い日の記憶。

繋いだ小さな手のぬくもりへの、誓い。

感傷に目を伏せた泪の視界を、何かが横切った。

「え?」

慌てて顔を上げた泪の目に映ったのは、何かに憑かれたかのように走っていく拓海の姿だった。海へ続く道へと姿を消した拓海の様子は、どこか常ならないものがあった。

「拓海……!」

それは、直感だった。泪は鞄を脇に放り投げると、拓海の後を追った。

夕日を受けた街路樹が、その行く先に長い影を落としていた。

 

*  *  *

 

「ダイゴロウー、ダイゴロウどこ行っちゃったのー?」

水緒の声が岩場に虚しく響く。あれから、水緒は犬のダイゴロウに引っ張られるままに海辺の洞窟の近くまで来たが、そこで躓いた拍子に、ついにリードを手放してしまった。ダイゴロウは唸り声をあげながら岩の影に飛び込んで行き、それきり姿が見えない。

「ねえ、ダイゴロウ、どこなのー?」

ごう、と吹いた風が水緒の髪を弄ぶ。水緒はその音に一瞬首を竦めた。岩と岩の間を抜けていく風の音が、人の呻き声のように聞こえた。そこかしこに影が落ち、だんだんとその濃さを増していく中、水緒は不安げに辺りを見回した。その背後には、岩と岩との隙間にできた洞窟がぽっかりと口を開けている。

底知れぬ深い闇の合間から、赤く光る一対の目が水緒を見ていた。ダイゴロウ、と呼ぶ声に答えるかのように、それがゆらりと姿を現す。影から溶け出すように一歩踏み出したのは、犬よりも一回りほど大きく、黒っぽい色をした四つ足の「ナニカ」だった。

水緒はまだそれに気付かない。「ナニカ」は、狙いを定めるかのように舌なめずりをすると、ぐっと体を低く屈めた。

 

「――井崎!」

鋭く呼ばれて、水緒が振り返ろうとするよりも早く、ぐいと手が引かれた。

「きゃっ」

水緒はそのまま、倒れ込むように地面に転んだ。その瞬間、水緒の背後でガチンと何か固いものが合わさる音がした。地面にぶつかるのを覚悟してぎゅっと目を瞑っていた水緒は、いつまで経ってもその衝撃が来ないのを不審に思い、恐る恐る目を開いた。

すると、そこには――

「え、江尾くん!?」

水緒の下敷きになるような形で倒れている、拓海がいた。慌てて飛び退くと、拓海は左腕を擦りながらそろりと立ち上がった。

「きゃあっ! ご、ごめん、ありがとう、ごめんなさい……って、どうして江尾くんがここに――」

「『アレ』は、井崎の知り合い?」

拓海は水緒の言葉を遮り、ひたとその背後に目を向けたまま尋ねた。

「アレって……」

水緒がその視線を追った先に――異形の姿があった。犬よりも一回りほど大きく、黒っぽい色をした四つ足の「ナニカ」。水棲生物のようにぬるぬるとした表皮が、夕日の残照を受けて鈍く光る。顔のパーツは爛れてぐちゃぐちゃになったかのようで、目がぎょろりと剥き出しになっており、まばらに尖った歯の並んだ口は閉じきらずに、だらしなく舌が飛び出ている。その舌からはびちゃびちゃと唾液が滴り落ち、ハアハアと荒い息が漏れている。体のあちこちには、鱗のような半透明の塊と、白い毛玉のようなものがくっついていて、それが呼吸をするたびにひくひくと蠢いていた。地上のどんな生物とも異なる不気味な風体は、水緒に、どこか深海魚を連想させた。

「なに、あれ……」

水緒が思わず一歩後ずさったのを追いかけるように、化け物がぬらりとその足を踏み出した。

その拍子に、化け物の後ろ足で何かがじゃらりと音を立てた。それは、ピンク色のリードだった。いつかの幼い水緒がダイゴロウにつけてやったはずのものと同じ色、形の。そしてその後ろ足に絡まるようにして生えている、白くてふわふわした、毛。

「……ダイゴロウ?」

ほんの直感だった。

水緒がその名を口にした途端、化け物はぐわりと唸り声をあげて飛び掛かってきた。

「……っ、こっち!」

拓海は再び水緒の手を引き、一瞬早くその場を動いた。空を噛んだ怪物の歯がガチンと音を立てる。先程聞いた音も、これだったのだ。拓海に手を引かれていなければ、水緒の体はとうにあの牙の餌食になっていた。水緒の背を寒いものが走る。

「井崎、走るぞ」

「う、うん」

拓海に手を引かれるがまま、岩場を必死で逃げた。

 

何度も後ろを振り返り、拓海はなんとか化け物から距離を取ろうとしていた。飛び掛かってきたときの跳躍力は厄介だが、化け物は一つ一つの動作はそれほど機敏ではない。まるで地上に上がってきたばかりのようにその動きはぎこちなく、四本の足をばらばらと動かしている。水緒を連れて走りながら、拓海は体中の血が沸き立つようにざわめくのを覚えていた。

間違いない。

ずっと、生まれた時から――あるいは、その前から。

ずっとずっと、待ち続けていた。

拓海が、この人魚の血を引く一族が生かされ続けてきた理由。

「江尾くんっ、もう……」

拓海に引っ張られて走ってきた水緒は、すっかり息が上がってしまっている。縋るように拓海の手を握る華奢な指の感覚が、ガンガンと拓海の中の「力」の回路を繋げていく。その手をきつく握り返して、拓海は熱に浮かされたように呟く。

「やっと、見つけた。この力の意味、使い道……」

この力で彼女を守れるのなら。

これまで生かされてきたことにも、意味があるのかもしれない。

潮が満ちてくるように、指先にまで力が行き渡っていく。ざあざあと響く海鳴りに呼応するように、知覚する潮の香りは強くなっていく。

――それなのに、この力は拓海のものにはならない。

「くそっ」

拓海が悪態をついた時だった。

「きゃあっ」

水緒が岩に足を取られて転んだ。

「っ!」

拓海も体勢を崩す。

その隙を逃すはずもなく、化け物は爪を振り上げて飛び掛かってきた。

「井崎、伏せろ!」

拓海は水緒を守るように覆いかぶさった。グオオオ、と咆哮をあげた化け物の尖った爪がまさに振り下ろされんとした、その時だった。

ガッと肉のぶつかる音がして、化け物は横っ飛びに吹っ飛んだ。キャン、と犬のような鳴き声があがる。

「拓海、大丈夫!?」

「……泪」

身を伏せていた拓海と水緒を守るように立ちふさがった後ろ姿に、ポニーテールが揺れた。

 

*  *  *

 

泪はふっと短く息を吐き出すと、右足を軽く引き、油断なく蹴りの構えを取る。吹き飛ばされた化け物は戦意を失わず、ぐるるる、と低く唸り声をあげている。ぬめぬめと弾力のある体には、与えたダメージは浅かったようだ。

泪はちらりと背後に目を遣る。拓海は何とか上体を起こしたようだが、その隣にいる水緒はぐったりと岩肌に身体を預けている。倒れた拍子に気絶したのだろう。

「泪」

拓海が泪の名を呼ぶ。常になく低いその声にはまるで魔力が込められているかのように、泪の視線を、意識を絡め取る。

「な、何」

二人の視線が交わった瞬間、その間を強烈な既視感のようなものが駆け巡った。あるいは、これまで出口を求めて彷徨っていた運命が、暗闇の中現れた光に殺到するような。津波のように押し寄せる力とイメージの奔流に、泪はたまらず顔を背けた。

 

為すべきことは、全て思い出した。拓海の中を満たす力が、正しい方向を求めて早く早くと急かす。

ふらりと立ち上がった拓海は、泪と向き合った。

昔は少し泪の方が背が高かったはずだが、今では拓海の目線の方が少し上にある。

拓海は水緒を見て、それから怪物を見て、最後にひたと泪を見据える。

その強い瞳に一瞬たじろぐ泪。

「泪」

見詰められて、泪は動けない。

拓海が唇の端を噛み切って、滲んだ赤い血をぺろりと舌で舐めとった。

「や、……嫌だ」

後ずさる泪を追い詰めるように、距離を詰める。

『俺は、何のために生かされてるんだろう』

幼い頃から、何度も何度も問い続けてきた言葉。それに答えるように、それを問うた幼い自分に答えるように、拓海はそっと囁いた。

「これが、俺たちがずっと生かされてきた理由なんだ。泪、分かるだろ?」

視界の隅に、倒れた水緒の姿がある。

ふるふると首を振る泪。長い髪がその背で揺れる。

泪が何かの願掛けのように髪を伸ばし始めたのは、いつからだったか。口癖のように強くならなければと言うようになったのは、まさに来たるべきこの未来を予見したからではなかったのか。

 

拓海の手が伸ばされ、泪の顎を捕えた。ゆっくりと近づいて、鼻先が触れる。押し付けた唇に伝わる、濡れた、柔らかい感触。

「……っ」

泪はびくりと震えて、固く目を閉じ、唇を頑なに閉ざす。強張る手で拓海の肩を押し返そうとするが、混乱のせいかそれには全く力が入っていない。

舌で泪の唇をなぞり、それに驚いて彼女が口を開けた瞬間に、その中に舌を捩じ込んだ。二つの体温が混ざり、撹拌される。戸惑うように縮こまった泪の舌先を捕え、どろりと、血の味のする唾液を流し込む。

「んぐ」

力が正しい方向に流れていくのを感じて、拓海の思考は酩酊状態にあるかのようにくらくらする。あるべきものが、あるべき場所へ。長年ずっと歪められてきた自分という存在が初めて正しい形を取り、持つべき力を持ったというような全能感に、拓海は酔った。

泪がいやいやと顔を背けようとするのも許さず、その目に涙を浮かべながら、拓海の為すがままに鉄の味のする唾液を飲み下すまで口付けは続いた。

「――っ、げほ、ごほ!」

とうとう拓海を突き飛ばし、解放された泪は思い切り咳き込む。離れる一瞬、二人の間を唾液の銀糸が繋いだ。

泪の渾身の力を受けてふらつきながら、拓海は手の甲で口元を拭った。潮騒はいよいよひどく二人の周りを駆け巡る。

「泪」

拓海の身の内に宿る力は、拓海のためのものではない。人魚の血を引き、そのために虐げられてきたこの力を、拓海自身は行使することができない。

そのために拓海がどんな思いをしてきたかを、一番近くで見てきた泪なら分かっているはずだ。何と言っても幼き日の泪は、拓海がきちんと生きられるよう、良かれ悪しかれ、望むと望まざるとに関わらず、あれこれと世話を焼いてきたのだから。

その拓海がようやく、この力の意味を、使い道を見つけたのだ。

――今さら、手伝わないとは言わせない。

「泪、戦って」

 

*  *  *

 

その言葉が契機だったかのように、化け物が再び襲いかかってくる。はっと顔を上げた泪は、飛びついてきたその牙を左腕で受け止めた。

「ぐっ……」

犬歯が食い込むのを無視してその手を思い切り振り払うと、化け物は鞠のように跳ね飛ばされた。一瞬腕を押さえると、もうそこにあった傷は見当たらない。自然治癒力が増幅されているのだ。

――戦って。

ぐるぐると体内を巡る拓海の力が、急速に馴染み始めている。泪は泣きそうに顔を歪めた。

 

「ん……」

ぴくり、と水緒の手が動き、瞼がゆるゆると開かれる。

「気が付いた?」

水緒の視界に映ったのは、拓海の、どことなく機嫌がよさそうな顔。

「? なんで、江尾くんが――」

そう言いかけた水緒の耳に、キャンと甲高い鳴き声が飛び込んだ。水緒がはっと跳ね起きると、泪の腕に噛み付こうとした化け物が払い捨てられるところだった。

「ダイ、ゴロウ」

「ごめんね。でも、井崎は俺――俺たちが守るから」

水緒の顔を覗き込み、拓海がきゅうと目を細めた。

 

投げ飛ばされて着地した化け物は、泪を狙って再び跳躍する。鋭い爪や牙は厄介だが、動きは単調。

泪はそれを躱しざま、

「……っ」

条件反射のように、蹴りを繰り出していた。「力」の込められた泪の脚は淡い燐光を纏い、それは過たず化け物の頸椎にあたる部分を砕いた。

先程までとは全く違う感触。ただの物理的なダメージではなく、質量を超えた、イメージの奔流を叩きつけるかのような。そして地面に落ちた化け物は、べちゃりと破裂した。地上の空気圧に絶えられず押し潰されてしまう、引き揚げられた深海魚のように。完全に崩れる前に、それは一瞬白い小型犬の姿をとり、しかしどろりと影に溶けた。

気が付けば夕焼けは既に海の向こう側へと姿を隠し、夜が辺りを包み込んでいた。

 

「拓海、井崎さん!」

泪が二人のもとへと駆け寄ってくる。

その瞬間、拓海を強烈な眩暈が襲った。ぐらりと世界が縦横に傾き、きいんと音が遠くなる。どくん、と心臓の音だけがこめかみに響いて、一つ鼓動を打つ度に視界が暗く閉ざされていく。手足の先から血の気が引いて、やけに寒い。まるで海の中に放り込まれたようだ、と拓海は思う。真っ逆さまに、溺れるように深みへと沈んでいく感覚とともに、ブツリと何かが切れる音がした。

「――拓海!」

ガッと肩を揺さぶられ、はっとした拓海の目の前には必死な表情の泪がいた。

「大丈夫……ちょっと立ちくらみしただけ。それより――」

顔を上げた拓海が、周囲に目を遣る。泪もそれに頷き、油断なく臨戦態勢をとった。

「この辺、なんかヤバい。早く離れないと……今はどうにもできないよ」

濃くなり始めた闇の中に、先程の化け物によく似た気配がぐるぐると満ちている。それらはまるで、今にも襲いかからんと隙を狙っているかのようだ。

潮の匂いはいよいよ強くなり、生臭さを孕み始めていた。

「井崎さん、行くよ!」

水緒は化け物の残骸をぼうっと見詰めていた。泪が彼女の肩を抱いて強引に走り出すと、操り人形のように、されるがまま水緒も足を動かした。

背後では潮騒と、洞窟から響く音が不気味に谺していた。

 

三人が息を切らして町の中へ戻ってきた頃には、月が中天に浮かんでいた。

拓海と泪はひとまず水緒を家まで送り届けた。別れ際、水緒はどこか呆けた様子で二人を見上げ、言った。

「水緒って、呼んでほしいの。二人ともっと仲良くなりたい」

それがペットを失ったことの慰めとなるのなら、と拓海は頷きを返した。

そうして水緒と別れ、拓海と泪は二人、帰途につく。道中で会話はなかった。

 

(続)

 

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