汐の音 -the murmuring of the sea- 第一話 前篇

「汐の音 -the murmuring of the sea-  第一話」 前篇 鳴向

 

<登場人物>

・江尾 拓海(えのお たくみ)

町に伝わる伝説の人魚の血を引くとされる少年。

その血のせいか、周囲にうまくなじめないでいる。

しきたりによって泪と同じ敷地の家に暮らしている。

 

・御鑑 泪(みかがみ るい)

拓海の幼なじみで、人魚伝説に出てくる英雄の血を引くとされる、ポニーテールの少女。

古武術の達人。

 

・井崎 水緒(いざき みお)

町にやってきた転校生。

小動物をイメージさせる、おっとり天然系。

 

・鱗堂 鎮武(りんどう しずむ)

拓海たちの同級生。

ちゃらちゃらした印象だが、実家の生業が性質の良くないものだという噂も囁かれている。

 

 

天気は快晴。沖の向こうまで晴れ渡った空は、新学期に相応しい爽やかな風を運ぶ。きらきらとした陽光とともに海鳥の声が降り注ぎ、潮の香りが鼻先をくすぐった。けれど拓海にはそれがひどくよそよそしく感じられ、そう感じていることを責められているような気さえした。

生命力に満ちた海に臨む灯台を見上げて、拓海は一つ伸びをした。新しい制服はまだ馴染んでいるとは言い難く、切ったばかりの髪の襟足も、すうすうしてどことなく落ち着かない。まるで別の生き物の皮を被っているような気がする、と拓海は思う。本来の自分を隠して、「江尾拓海(えのお・たくみ)」という人間に擬態しているかのような。

「俺は、何のために生かされている?」

拓海の目の前で波が、たゆんと手招きをした。テトラポットに遮られ、泡と藻屑が渦を巻く雑多な海面に、ふと引き込まれそうになる。その向こうでこそ、自由に呼吸ができるのではないか、という直感。潮風が甘く香り、たまらない気持ちになる。ちらりとその影に美しい魚の尾びれが翻ったように見えた。

その時、ぼおんと遠くで漁船の汽笛が響き、拓海ははっと顔を上げた。慌てて腕時計に目を遣る。

「……もう行かないと」

足元の制鞄に描かれた校章は、この海沿いの町で唯一の高等学校のものだ。それは拓海が春から新しく通い始めた学校だった。

くるりと海に背を向けると、かもめの声が見送りのように後を追ってきた。目を覚まし、活動を始めた町の喧騒を潜って、拓海は人々の中へ歩みを進めた。

 

海沿いの道を町の中心部の方へ歩いて行くと、ぽつぽつと住居が増え始め、やがて商店街を抜けた先に、真っ白い校舎が現れる。側面には、拓海の鞄にあるものと同じエンブレムが描かれている。三階建ての校舎は、小ぢんまりと身を縮めるようにして建っていた。門のところにお約束のように桜が植えられていて、入学式の日に散りそびれた花びらがぱらぱらと舞っている。

それを横目に、拓海はそこをすたすたと通り過ぎた。数日前に入学式をしたところだが、基本的に生徒の大部分が地区の中学校からの持ち上がりになるので、これと言った感慨もない。

門から校舎までの間には少し距離があり、前庭のような作りになっている。その横には体育館。開け放たれている扉の向こうから、朝靄を裂く、凛とした声が聞こえて、拓海の足が止まった。

視線の先で、一つ括りにされた黒髪が揺れた。

体育館の中にはマットが敷かれていて、柔道着を着た生徒が数人、輪を作っている。彼らは一様にその輪の中心を見詰めていた。

そこには、組手をしていたのであろう二人の生徒の姿。勝敗は既に決していて、大柄な、いかにも柔道部といった風体の男子が無残にも床に転がされていた。それを見下ろす立ち姿は、背中まで届く黒髪をポニーテールにした、華奢な女子生徒だった。

ふと覗いた涼やかな眼差しは、切り出した黒真珠の欠片の鋭さを宿している。全身に張りつめた弓のような空気を纏っていた彼女が、それをふっと緩め、相手に一礼した。

さらりと髪が肩を流れる。

身長は女子にしては高めだが、だからと言って、すらりとしたその手足が巨漢を軽々と投げ飛ばすとは夢にも思わないだろう、普通は。

拓海は、ぱんぱんと手を払う彼女をじっと見つめていたが、やがて一つため息を落とした。

「……泪」

拓海にとって、それはもはや見慣れた光景だった。まさか高校入学早々にして目の当たりにすることになるとは、流石に思っていなかったが。

拓海は、この御鑑泪(みかがみ・るい)のことを昔からよく知っている。

泪の父が家で古武術の師範をしていることも、泪が幼い頃からずっとそれを習ってきたことも。大概の男は彼女の前に、いとも容易く投げられてしまうことも。彼女が髪を伸ばし始める前のことも。

それは、もう、嫌になるほど。

そして恐らくは、泪もまた。

その時、視線を感じたのか、泪が不意にこちらを見た。ばちりと目が合う。

「――っ!」

泪の瞳が、うっかり人に出くわした野良猫のようにきゅっと見開かれる。その目を真ん丸にした表情は、先程の鋭さを打消して有り余る落差があった。

「……っ」

見詰め合うこと暫し。あるいはそれは一瞬だったのかもしれない。

先に目を逸らしたのは泪だった。気まずげに視線を明後日の方向に彷徨わせる。ちょうどそこへ先程の柔道部員らしい男が現れ、彼女に何事か話し始めた。拓海も、はっと居たたまれなくなり、急ぎ足でその場を後にした。

 

「柔道部には入らないんですか?」

男子生徒が食い下がるように尋ねるが、泪は首を横に振った。でもそれならもっと武道に力を入れている学校に行くという手もあっただろうに、という彼に、

「部活には入らないわ」

きっぱりと言い切ると、さすがに彼もそれ以上は何も言えなかったのか、口を噤んだ。

でも、と泪は思う。この町を出て行くつもりもない。

この町にいながら、けれど強くならねばならない。そういう使命感のような声が、遠く近く、泪の中で囁き続けている。

かける言葉を失い、男子生徒は立ち去った。それを見届けた泪は、あちらこちらへと目を泳がせた後、もう一度体育館の入口を見た。拓海に見られたと気付いた瞬間血が上った頬は、まだ熱が引かない。

そこにはもう拓海はおらず、桜の花びらが一枚だけ、はぐれたかのようにふわりと風に舞っていた。

「……」

先程はすぐに逸らしてしまった視線を、泪はじっと花びらに向けた。きっと手を伸ばしても、それを掴むことはできない。それでも、そこから目を離すことが、泪にはできなかった。

 

教室に着いた拓海は、喧騒を避け、廊下寄りの隅にある自席に腰を落ち着けた。クラスはほとんどが中学からの持ち上がりの顔ぶれなので、もはや勝手知ったるという空気が流れているが、その中で異彩を放つ一角がある。

姦しく女子が集まるその輪の中心には、一人の見慣れない少女の姿。人垣から見え隠れする影は小柄で、肩くらいまでの長さのふわふわとした茶色みがかった髪が、この町の住人らしからぬ雰囲気を彼女に纏わせている。よく見ると、ブラウスの上に羽織っているカーディガンも襟や袖、ボタンの作りが、他の生徒が判を押したように着ている格安量販店のものとは異なっている。

「ねえ、水緒ちゃんってどうしてわざわざこっちの学校に来たの?」

「中学はもっと街の方のところに通ってたんでしょう?」

「ええと、父の仕事の都合で、こっちの近くの方が便利だってことになって、それで」

髪だけでなく表情もふわふわと微笑みを絶やさない彼女に、泪が野良猫ならこちらはケージに入れられて大事に飼われているハムスターか何かだ、と拓海は思った。彼女が笑うたび、鈴を転がすような声がした。

「お父さんって何の仕事してるの?」

「井崎さんって兄弟いるの?」

「何人家族?」

「え、えっと、待ってね。最初が、何だったっけ……?」

井崎水緒(いざき・みお)。始業式の後のホームルームで自己紹介があり、そこで聞いた名前を何とか思い出した。

拓海自身はさほど興味もなくぼんやりとしか聞いていなかったのだが、水緒は元々もっと街に近い地区の出身で、この春からこちらの学校に通うことになったのだという。

なかなか人の入ってくることのないこの地区では、転入生などフィクションの中の出来事のようなものだ。それを珍しがった何人もの生徒たちが、暇さえあれば彼女を囲んで何やかんやと質問攻めにしている、というのがここ数日の光景だった。

かと思えば、教室の別の隅からは、それに毒づくような声も聞こえてくる。

「ちょっと珍しいからって、今はちやほやされてるけどどうせすぐに飽きられるでしょ」

「だいたいあの髪の毛、校則違反じゃない? 絶対染めてるに決まってる」

はあ、とため息を吐いた拓海の視界に、相変わらず人の掌の上で愛想を振りまいている水緒の笑顔が映った。

拓海は窓の向こう、遠くに見える海へと視線を投げる。こんな小さなクラスの中での、人の間での違いなんて些細なものだ。海にはもっと、人智の及ばないほど多様な生がひしめいていて、そこではきっとこんな差異なんてあっという間に溶けだしてしまうのに。

水底に沈んでいくような息苦しさを覚えた拓海は、大きく息を吸うと、目を閉じて机に突っ伏した。

 

ふわり、と柑橘の香りが拓海の鼻先をくすぐった。顔を上げると、目の前を泪が横切っていくところだった。

先程の道着から制服に着替えた彼女が纏うその香りは、所謂制汗剤のものだろうか。なんとなくそれに泪らしさを感じて、拓海は少しだけ口角を上げた。

彼女は拓海と目を合わせることなく、すいと自分の席についた。そこにあるのは、どことなくよそよそしい空気。これが、彼らの日常だった。

ざわざわと喧騒が拓海の耳に戻ってくる。

 

しばらくしてチャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。まだ若い、女性の教師だ。たわいもない朝のホームルームの後、彼女は言った。

「今日は図書館オリエンテーションをします。図書館に行って、使い方を覚えてもらいますからね」

移動教室と知って、クラスがにわかにざわつく。

「図書館の使い方のレクチャーをしたら、四人一組の班で、それぞれに与えられたテーマについて簡単に調べ学習をしてもらいます。調べたことは最後に発表してもらいますね。では、まず班に分かれましょう」

その言葉が終わるや否や、ある者は近くの席同士で、またある者は中学の時からの友人同士で四人組を作っていく。

拓海は席に座ったまま、ぼんやりとそれを眺めていた。と、すっと拓海に寄り添う人影があった。

「……泪」

先程までは言葉を交わさなかった、あるいはそんな素振りさえ見せなかった泪が、ふらりと拓海のそばにやってきていた。

「珍しいな、泪がこういうとき俺と組むの。あっちに入らなくていいのか?」

拓海がクラスの中心の方を顎でしゃくって見せると、泪は憮然として唇を尖らせた。

「あれに巻き込まれるよりマシ」

泪が指差した先では、相変わらず水緒が絡まれていた。

「ああ……」

「それから、拓海は相変わらず協調性なさすぎ」

そのまま二人して傍観の態勢に入る。

「……」

「……」

会話はない。

と、その時。

「やっほー、お二人さん」

二人の背後から、やけに軽い声が掛けられた。

「僕も入れてくれない?」

「……鱗堂」

振り返った先に立っていたのは、にやにやとした笑いを浮かべた男子生徒だった。

鱗堂鎮武(りんどう・しずむ)。

いつも愛想がいいのだか底知れないのだか分からない笑みを湛えていて、加えて口調も軽い調子であり、ちゃらちゃらした男だという印象を受ける。しかし反面、実家の生業があまり性質の良くないものだという噂がまことしやかに囁かれてもいる、要注意人物である。

そのせいだろうか、クラスのメンバーとは当たり障りなく交流しているように見えるのに、こういうタイミングになるとふと余っていることがある。そんな時にはふらふらと拓海や泪のところへやってきて、普通に接してくるので、全く掴めない人間だと拓海は思っていた。

「ねーるいるい、僕も入れてくれるよね~」

その鎮武が、ぽんと泪の肩に触れる。

「ちょっと、馴れ馴れしく触らないで」

「ちぇ」

手を振り払われた鎮武の髪が揺れ、陽に透けて明るい色を見せる。こいつの髪こそどう見ても染めた茶髪だろう、と拓海は思っているのだが、教師も、生徒も誰もそのことについて言及しない。口を尖らせ、拗ねたような表情を見せるその顔の造詣は割合に整っていて、体躯も泪と並んで遜色ないくらい、背が高くすらりとしているように見える。やはり、残念なのは性格か、と拓海が分析していると、再び担任の声がした。

「うーん、困りましたね。こっちの班は一人多い……」

と、水緒の班を指差した。

「それから、こっちの班は一人少ない」

そして拓海の班を指差す。

「ごめんだけど、誰か一人移動してくれないかな?」

首を傾げながらそう告げられて、水緒の周りに集まっていた四人の生徒たちがざわざわと顔を見合わせる。

「ははーん、こんな問題児ばっかりのグループの仲間には入りたくないってことか~」

「……明白に問題児なのは鱗堂だけだ」

うんうんと頷きながら呟く鎮武の言葉に、拓海がぼそりと返した。

「おいっ、ズルいぞなんで一抜けしようとしてるんだよ! 僕と江尾は一緒に問題児ライフを送ってきた仲だろ!?」

「勝手に俺を巻き込むなよ不良」

「えーっ酷い……るいるい、江尾が僕のこといじめるんだ、慰めてよ!」

「その呼び方やめて」

と、こちらはこちらでがやがやしていた時だった。

騒がしい空気を裂いて、すっと白い手が上がった。

「あの、私、移動します」

声の主は、水緒だった。

一瞬、辺りがしんとなる。特に水緒の周りに集まっていた生徒たちは、目を丸くして彼女を見詰めている。担任だけが、ほっとしたようににこりと笑った。

「そう? 助かるなあ。じゃあ、井崎さんの班は向こうね」

「はい」

唖然とするクラスメイトをよそに、水緒はとことこと拓海たちのところへ駆け寄ってきた。

「よろしくお願いします!」

ぴょこんと頭を下げられて、拓海と泪は顔を見合わせ、鎮武だけはへらへらと喜んで手を振った。

「やった、水緒チャン、こちらこそよろしくね」

 

教員による、図書の貸し出しや返却の手続きについてのレクチャーが行われ、その後図書館にある本を知るという名目で短い調べ学習の時間が持たれた。

「僕らの班の課題は、これだァー!」

意気揚々と鎮武が選び取ってきたテーマは、『この町の人魚伝説について』。

「なるほど、だったら郷土資料とかのところを探さないとですねっ」

鎮武のテンションを受けて元気いっぱいに水緒が立ち上がる。が、鎮武は手を突き出してストップを告げるジェスチャーを見せた後、ニヤリと笑った。

「ノンノン。そういうことなら、目の前の二人に聞いてみた方が早いんじゃないかなぁ」

拓海と泪ににやにやとした視線が向けられる。

ハテナマークを飛ばす水緒に、鎮武が笑みを深くした。

「そこの二人の家は、まさしくこの人魚伝説の生き残りの家系なんだよ」

 

「生き残り……って、どういうことですか?」

目を丸くする水緒に、泪がため息を一つ零す。

「なんで鱗堂が胸張ってドヤ顔してるの……まあ、本当のことだけど」

淡々と、泪が問いに答えた。

「あたしと拓海は、この町に受け継がれている人魚伝説の中に出てくる、人魚と英雄の血を受け継いでいると言われてる家系の人間なの」

ほわああ、と驚きを隠さない水緒の様子に、拓海が思わず笑いを零した。泪はそれを咎めるように一瞬拓海を睨みつけ、それから水緒に「この町の人魚伝説のことは、詳しく知ってる?」と尋ねた。首を横に振る水緒に、じゃあそこから……と、泪は話し始めた。

 

その昔、この辺りの海には人魚が住んでいた。人びとは海産物を求めて海に出るが、人魚はそれを快く思わなかった。そのため、人と人魚の間には諍いが絶えなかった。

そんなある日、浜辺で遊んでいた村の子どもが海に流されてしまうという事件が起こる。

それが、戦争の始まり。

陸と海との争いは、しかし人魚の方に圧倒的な分があり、村人たちは手も足も出なかった。争いで海が荒れていく。

そんなある日、一人の人魚の女が、とある人間の男に恋をして、彼にその身に宿る人魚の力を与えた。その力を使って、村人たちは人魚の村を滅ぼし、戦いに終止符を打った。

男は村の英雄となり、人魚の女との間には子どもにも恵まれた。しかし力を使い果たした人魚の女は、すぐに死んでしまった。男はその後人間の妻を迎えたが、人魚の子どもも、人間の子どもも、等しく大切に育てたということだ。

そうして今でもこの村では漁業が盛んなのである。めでたし、めでたし。

 

「……というのがこの町の伝承の一部始終よ」

語り終えた泪に、鎮武がパチパチと拍手を送る。

「さっすが、当事者の末裔なだけあって完璧な語りだね」

その軽薄な笑顔を黙殺して、泪は「私がその人間の子どもの方の血筋、そして拓海が人魚の血を引く血筋と言われてるわ」と水緒に付け加えた。

「人魚は死んじゃったんですね。なんだかかわいそうです」

水緒は眉を下げた。

「まあ、それでも人間の男を助けたかったんだっていう、悲恋物語っていう解釈が一般的だからねえ」

と鎮武が頷いている。

「それでもこうやって家系は続いてるわけだから、本当のところはどうか分からないけど」

拓海は手を握ったり開いたりしながら呟いた。まるでそこに人魚の血が息づく証でもあるかのように。

「すごい……そういう伝説が受け継がれてるのって、本当にあるんですね……」

水緒はただただ感心しているようだった。泪と拓海の顔を交互に見ては感嘆のため息を吐いている。

「そうそう。しきたりとは言え、二人って同じ家に住んでるんだもんなー、そういうのって、本当にあるんですね!」

けらけらと笑いながら、鎮武が拓海の背をばしんと叩いた。

「いてっ」

「ええー! 一緒に住んでるんですか? でも、苗字は違うよね……?」

あわあわと三人を見回す水緒に、泪が慌てた。

「ちょっと! 敷地は確かに同じだけど、建物は別だし! 私は本宅、拓海は離れで暮らしてるから。それにそんなの、ただのしきたりだし! そんなに慌てないで!」

「慌ててるのはるいるいだと思うんだけど~……痛!」

机の下で鎮武の足が思い切り踏まれていたが、拓海は見なかったことにした。

「というか、そろそろ時間」

とんとん、と腕時計を示して拓海が告げると、泪と水緒がハッとした顔を向けた。

「何か一冊テーマに沿った本と中身を紹介したらいいんでしょ」

どうする、と拓海が問うより早く、鎮武が手近な本棚から一冊本を抜き取った。

「それならこの辺がいいんじゃないかな」

それをぽんと水緒に手渡す。『にんぎょでんせつ』と題されたその本は、小学校で読まされる、郷土愛精神養育の目的の副読本だった。

「こんな本図書館にあったのね」

泪の呟きにふふんと鼻を鳴らして、鎮武が得意げに言う。

「これをさ~、水緒チャンが持って、今さっきの人魚伝説の話を軽~くしといたら大丈夫! 僕が保証する!」

「わ、分かりました……」

水緒は慌ててぱらぱらと本を繰り、泪が横からフォローし始める。これで問題なさそうだ、と傍観の姿勢に入った拓海の耳に、ふと鎮武の声が届いた。

「しきたりとか、伝承とか……ほんっとくだらない」

それは、誰かに聞かせるための言葉ではなく、思わず口を衝いて出たかのような呟きだった。それが先程までの軽い調子とはかけ離れていたので、拓海は思わず鎮武を見遣ってしまった。

ちょうどそのタイミングで、担任から終わりの合図が出た。発表のためのざわめきの中に、拓海の疑念は一瞬で溶けていった。

そして拓海たちは無難に発表を終え、ばらばらと教室に戻る。廊下で泪とすれ違う瞬間、ふと目が合った。

「……何」

なんとなく目が離せずにいた拓海に、泪が眉を顰める。

「いや、何も」

泪の向こう、廊下の窓の外には、眩い光を湛えた空が広がっていた。

「そう」

二人の会話はそれきり途絶えた。窓に近寄って見ると、空の下弦は海と接していて、決して混じり合うことなくただどこまでも並んで側にあった。

 

*  *  *

 

海沿いの小高い丘。その、海に対面する側の斜面は岩肌が目立っていて、ごつごつとした岩と岩との隙間に、真っ暗な洞が口を開けていた。人一人簡単に入れそうなその入り口の奥に何が広がっているのか、確かめた者はない。浜風の吹き込む関係でか、その隙間からは人の呻き声のようなものが聞こえると言い、周りの住人達は気味悪がって近づこうとはしなかった。

その暗闇の奥底に、ソレはいた。光の届かないその場所は、深海のように寒く、独房のように冷たかった。

 

――ここはどこだ。

無辺縁の暗闇の中、ソレは問う。

目が開いているのかいないのか、声が出ているのかいないのかも分からない。自分がどこにいるのか、自分の体はここにあるのか。思考を妨げるざあざあという音は、潮騒か、それとも体を巡る血流か。

どちらでも、同じことだ。

どうでもいい。

ソレが再び微睡みの淵に沈もうとしたときだった。ふと、懐かしい匂いがした。甘く肌に纏わりつくような、潮の匂い。それが、ソレの本来の姿を思い起こさせる。体、手、足、指。逃れることのできない、この窮屈な器。

『俺は、何のために生かされてるんだろう』

海の香りに乗って、声が聞こえた。諦め混じりなのに切実で、切実なのに投げ遣りな。

――そうだ。

その声は、彼を呼び起こす。

何故。

何のために。

長すぎる生は夢と現の境を溶かし、始めも終わりも失った無間地獄となって彼を苛む。

もう、嫌だ。

「もう嫌だ」

彼は暗闇の中で独り、胸を掻き毟り、慟哭した。揺蕩う潮の香りと波打つ音が、慰めるように彼を取り巻く。彼の声は、岩の隙間から這い出して、うおお、うおおおんと響いた。

 

 

図書館オリエンテーションから幾日か過ぎたある日の午後、音楽の時間。

「合唱の課題曲を決めましょう」

恰幅のいい女性の音楽教師の一言で教室がざわめく。クラスメイトたちはいくつか挙げられた候補の曲を、喧々諤々と検討し始めた。

「私、この曲が好きだなぁ」

そんな中、ぽつりと鈴を鳴らすような声がした。

「え、どれどれ?」

「あたしにも教えて!」

がやがやとクラスの賑やかしの女子に囲まれているのは、水緒だった。

「水緒が言うなら私もこれがいい」

「俺も俺も」

彼女の一言で、クラスの意見が一斉に傾く。

「じゃあもうこの曲でいいんじゃない? 泪もそう思うでしょ?」

仕切りたがりの学級委員の言葉で急に話題が泪に飛び、彼女は目をぱちくりさせた。

「え。え、うん。いいんじゃないかな」

水緒はあわあわと周りを見て、泪に「ごめんなさい」のジェスチャーを送る。泪は苦笑を返した。

「あのっ、ごめんなさい私、深く考えずに言っただけで……みんなの意見とか考えてなくて」

「じゃあ反対の人――」

クラスメイトたちが教室を見回すが、誰も反応しない。

「じゃあ賛成の人――」

わっと手が上がり、あっという間に曲が決まった。

どうせ自分は頭数に入っていない、と拓海は嘆息する。こういう時間は、光きらめく海面を見上げる深海魚になったつもりでやり過ごすのだ。

 

帰り道、決まった課題曲を口ずさみながら海沿いの道を歩く。口から零れるのは、いつの間にか歌ではなくなり、忌み嫌われる人魚の声に変わっていた。

あの日図書館で、水緒には伝説の末裔と言ってもしきたりのようなものでしかないと告げたが、拓海にはいくつか、確かに普通の人間とは違う性質があった。

この人魚の声はその一つだ。喉を震わせる人間の発生とは異なる、言うなれば鰓のように、肺から直接空気を出し入れするようにして出すこの声。拓海は、母を見てこの唄い方を覚えた。月明かりの夜、拓海を背負い空を見上げながら、母はよくこうやって唄っていたのを拓海はよく覚えている。物心ついてから拓海が真似をすると、しかし母は烈火の如く怒り出した。それは拓海もまた人魚の血を引く者であることを強烈に思い起こさせたからだと、今となっては理解できる。けれど、納得してはいない。

母親の前で唄うことは控えるようになったが、幼い拓海はそれでも寂しい時、悲しい時、唄うことをやめられなかった。たまたまそれを耳にした同級生たちは拓海の唄を嫌悪し、あっという間に虐めのターゲットにされた。そのせいで泪をも巻き込む揉め事に発展してしまい、それ以来、泪の前でも唄うことを隠している。

泪は、拓海が人間の言葉で、人の世界に溶け込むことを望んでいるから。

それでも、留めようがなく口から唄が溢れ出す時がある。

そんな時はいつも、海に足が向かう。ふらふらと砂浜に出た拓海は、テトラポットの影に身を隠し、波打ち際を見つめながら唄った。

 

「なんだか、海に帰りたい、って気持ちになる唄だね」

不意に自分に向けて投げかけられた声に驚いて顔を上げると、すぐそばに水緒が立っていた。

「というか、唄? 声?」

水緒は、いつも教室で見せているふわふわとした笑みを拓海に向ける。

「は? 何だそれ」

困惑して、思わずぶっきらぼうに返してしまった。こんな風だから怖がられたり嫌われたりして、みんな自分に話しかけなくなるのだということは分かっているはずなのに。

「へへ。本当はね、この間テレビで見たイルカの声に似てるなぁって思ったんです」

水緒は拓海の態度にも顔色を変えず、尚もにこにこと話しかけてくる。

「……イルカの声って、ほとんどは超音波で人間には聞こえないし、届かないんだって」

ペースが狂う。どう対応していいか分からず、拓海は目を泳がせた。

「じゃあ、江尾くんの声も、届かないの?」

はっとして拓海が顔を上げると、水緒と目が合った。急に頭が真っ白になり、慌てて立ち上がる。

「俺に話かけてるとこ誰かに見られたら、井崎まで頭おかしいと思われるぞ」

泪みたいに。

「どうだろう? それより、さっきの唄、もう一回聞かせてほしいな」

「断る」

拓海が浜から上がろうとすると、何故か水緒もついてくる。

「おい」

「私、帰り道こっちなんだ」

水緒が進行方向を指差す。

「っ、お、俺教室に忘れ物したから今から戻る。じゃあ」

直視できない。拓海はきょとんとした水緒に背を向け、振り返らずに来た道を駆け戻った。

 

めちゃくちゃに走りながら、頭の中では今の水緒との会話がぐるぐると回る。

初めてだった。

あの唄が拓海の声だと言われたのが、初めてだった。

海に帰りたい気持ちになる、と言われたのが、初めてだった。

『江尾くんの声も、届かないの?』

「……届いた」

ぐるぐるする、感情を持て余す。どんな顔をすればいいのか分からなくて、手で顔を覆った。視線の先、拓海の目の高さで、海が夕日を受けてきらきらと光っていた。

結局その日どうやって家に帰ったかを、拓海は全く覚えていない。

 

後篇