あなたが、愛してくれたから 中篇

あなたが、愛してくれたから 中篇  淡夏

 

3.

 

頭痛で目が覚めた。大したものではないが、唯一残った生身の異常には敏感にならざるを得ない。

だが不安に思ったのも束の間、隣にあった寝顔を見ると、少しほっとした自分がいた。

本当に、彼女の存在は自分の中で、計り知れない程大きくなっている。

彼女の正体が、何であろうと。

 

「幽霊って、どういう……」

言って、私はエレンの肩に触れた。

触れた。触れることが、できる。

幽霊が本当に存在するかどうかはともかく、もし本当にエレンがそうなら、こうして触れることはできないはずだ。私の手は、確かにエレンを感じ取っている。

「うーん、私でも、今の私の状態を正しく理解できているわけじゃないんだけれども……。確かなことは、今の私には肉体がない。あなたのように生身の肉体が、じゃなくて。私の精神だけが、データとしてある、みたいな感じだと思う」

「データ……? でも、こうして俺は君に触れて……」

首を横に振り、彼女は私の言葉を優しく否定した。

「物理的には、触れてないんだ。ただ、あなたの脳が、触れていると認識してるだけで」

「幻覚、だっていうのか」

思わず、エレンの肩を掴む力が強くなる。少しだけ、エレンは顔を歪めた。

彼女の言葉を理解しようにも、そんな表情を見せられては実感なんてできやしない。

エレンは再度、首を横に振った。

「それも違うよ。私はデータだけれども、私――白貫エレンという存在は、ちゃんとここにあるの。それだけは、絶対に本当のこと。……本当のこと、なんだから」

心なしか、最後の言葉は自分に言い聞かせているみたいだった。

理解の範疇を超えた展開に、私は頭の中を整理することができていない。けれど、今の言葉で、幾分か冷静さを取り戻すことはできたようだ。

「正直、何も理解はできていないけど。今の話がどうであれ、エレン、君がここにいる事実だけは変わらない。それで、良いんだな?」

エレンは、力強く私の言葉を肯定した。信じて欲しい、そう訴える彼女の瞳は、きっと幻ではない。

それだけで、充分だった。

「それで、エレン。これから、どうやって暮らしていく?」

唐突な私の言葉に、エレンはきょとんとした表情を浮かべた。

「俺はさ、君の事情も踏まえた上で、ちゃんと二人で暮らしていきたいんだ」

――エレンと一緒にいることができる。

それが分かれば、充分だった。

それに、彼女はその在り様が他人とは違うというだけの話。何の不都合もない。

エレンの頬を、一筋の雫が伝った。

物理的にどうかは知らないが、少なくとも私にとって、それは真実の涙だった。

私はエレンを抱き寄せる。

彼女は、静かに嗚咽を漏らした。

 

その晩、私達はいつも以上にお互いのことを話した。

昔のこと、今のこと、これからのこと。

お互いが今の身体になる前のことは、それなりに盛り上がる話題だった。

どんな子供だったのか。

どんな環境で育ったのか。

どんな恋愛をしてきたのか。

過去を知る、ということは、その人自身を深く知るということだ。それがどれだけ平凡なものでも、記憶の積み重ねの上に、自我は形成される。

そして今のエレンは、白貫エレンという名の人物が持っていたであろう記録を元に再構築されたもの、らしい。

「だから、白貫エレンとしての“記憶”は確かなものだけど、その上で生まれたこの“私”が、白貫エレンと呼べるのかは、分からない」

淡々とした口調は、その奥底にある感情を抑えつけているようで。

堪らず、その頭の上にぽんと手をおいて、優しく撫でた。

「エレンはエレン、だろ」

「……そう、だね。あなたが、私をそう認識してくれる、なら」

エレンは安心したように目を閉じ、私の胸に頭を預けてきた。

その、どこまでもリアルな彼女の身体を感じたまま、私は眠りに就いた。

 

「お前、最近何かあったのか」

仕事の休憩中、同期の中沢が聞いてきた。

「心なしか、浮かれてるように見える」

「気のせいだろ。そう言うお前は、何か疲れてるな」

中沢は脳をネットに繋いではいるものの、身体はほとんどが生身のままだ。にも関わらず、他人より熱心に仕事をする。そのせいで、目の下の隈がデフォルトになっている。

だから、疲れているのはいつものことなのだが、それでも、いつも以上に疲労の色が強いように見えた。

「ああ、ちょっと厄介なことがあってな」

中沢は溜め息を吐きながら言った。

「この前、バグの対策ソフトをインストールしてくれ、ってメールあっただろ? そのバグってのが厄介なもんでな。応急処置はしたんだが、根本的な解決ができてないんだ」

あんなの見たことねぇ、と誰にでもなく中沢は呟いた。精神的にも結構きてるみたいだ。

「……休憩入れなきゃ能率下がるぞ」

分かってるよ、と中沢は栄養ドリンクを飲み干した。

 

家に帰るとエレンがいる。そのことを考えるだけで、不思議と仕事も捗った。普段では考えられないスピードで片付けることができた。定時帰りとまではいかないまでも、それなりに経費削減に貢献できるようになっているのではないだろうか。

仕事を終え、逸る気持ちを抑えながら家路を急いだ。何かお土産でも買って帰ろうか、とは思うものの、何を買っていけば良いか分からず、そのまま家に着いてしまった。

「お帰りなさい!」

扉を開けるとエレンが出迎えてくれた。その顔を見るだけで、一日の疲れがどこかへと消え去ってしまった。

「ただいま」

服を着替え、二人で隣り合って座った。そして何とはなしに、テレビを点けて他愛ない会話を繰り返した。

私は普段からテレビを見ないので、芸能人の名前など全く分からない。不思議なことに、エレンは私よりもたくさんのことを知っていた。

「データの身分って、普段すること無いんだよ。だから、なんとなーく興味のある事調べるのが日課になってた、っていうか」

データの中の生活がどういうものかは分からないが、思っていたより退屈しないようだった。

「でもさ、私が今いるサーバーって外部の情報を手に入れにくいんだよね。閉鎖されてる感じがする、っていうか」

「今いるサーバー?」

「うん。どこかにあるのかはよく分からないけど、そこからあなたの頭に一部を飛ばしている感じ、かな。基本的には、色んなところを渡り歩いてるの、私。じっとしていたら、消されちゃうかもしれないからね」

悪戯っ子のような表情でエレンは言うが、私の心には、一抹の不安が生まれていた。

「……消される、って」

気持ちが表情に出たのだろう、エレンは大丈夫だよ、と笑う。

「消される前に逃げちゃうから。って、今はちょっと次の行き場に困ってるんだけどね」

「……そっか、無理はしないでくれ、よ」

「そんな深刻な顔しないでよ」

エレンは、優しい顔で言った。

――信じて、と。

 

 

4.

 

食堂で会った中沢は、まるで魂が抜けたように天井の一点を見つめていた。

「生きてるか?」

「なんとか、な」

天井を見つめたまま、中沢は話を続ける。

「長い戦いも、ようやく終わりそうなんだ。今日あたりでケリがつく」

やっと、終わるんだ。そう呟く中沢は不気味だった。

私は死にかけの彼の目の前に座り、ゆっくりと昼食を摂った。

 

異変が起きたのは、定時を過ぎた頃だった。

何の前触れもなく、頭痛が襲ってきた。激痛が走ったのは一瞬だったが、それでも、しばらくはずきずきと鈍い痛みが脳内に残留していた。

上司の勧めもあり、私は仕事を切り上げ、医者のところに行こうと会社を出た。

と、そこで会うはずのない人物と出会った。

「……エレン?」

表門を出たすぐ側で、エレンはうずくまっていた。

自分のことなど構わず、私は彼女に駆け寄った。

「どうしたんだ、エレン!」

私の言葉にエレンは顔を上げ、力なく微笑んだ。

「ごめん、ね。私、これしか、思いつかなくて……」

見れば、エレンの身体は所々ぼやけたり、ノイズが走ったりしている。

「一体、どうしたんだ」

「もうちょっと、したら、落ち着くから。悪いけど、一回、姿、消すね。続きは、家、で」

そう言って、エレンの姿は見えなくなった。彼女の言葉を信じるなら、家に帰れば良いのだが。

相変わらず、頭は重い。けれど私の足は、病院への道ではなく、家路を急いでいた。

「エレン!」

扉を開け、彼女の名前を呼んだ。いつもなら出迎えてくれる彼女は、しかしすぐには出てこなかった。

――エレン。

居間に上がり、電気を点ける。すると、ソファの上に、座ったエレンの姿が現れた。

「さっきは、ごめん。だいぶ落ち着いたから、もう大丈夫」

輪郭もはっきりしているし、顔色もよくなっている。

それでも、私の気は休まらない。頭痛も、治まってはいない。

「エレン、何があったんだ……?」

彼女は申し訳なさそうな顔をした。

「ちょっと、ね。前にいたサーバーを飛び出さざるを得なくなっちゃって」

「それって……」

「うん、ちょっと消されかかっちゃった」

「消されかかったって……」

――エレンが消える。

――そんなことは、あってはならない。

慌てたように、エレンは言った。

「大丈夫! 今は大丈夫だから。ただ、ちょっとあなたに謝らなくちゃならないことがあって……」

「謝るって……どんな?」

エレンの目が、私を捉える。その瞳は、まるで、許しを乞うかのように弱々しい。

「実は、今。私は、あなたの中にいるの」

「俺の……中?」

エレンはこくりと頷いた。自分のしでかしたことを、自分で受けとめるように。

「正確には、あなたの脳に逃げ込んだの。私がいたサーバーは、あなたとの繋がりが強いみたい、だったから。ねぇ、何か、身体に違和感ない?」

言われて、私は右手を頭にあてた。治まらない頭痛は、では……。

妙な気分だった。今や唯一“私”と言える脳の中に、私以外の誰かがいる。

その現実を、私は痛みとして感じている。

痛みは、自然な肉体からの警告だ。

だから、今の状態は、決して好ましいものではないのだろう。

「ごめんなさい……」

エレンは頭を下げる。声も、少し震えている。

私は――。

気付けば、エレンの頭にぽんと手を置いていた。

「無事で、良かったよ」

ぽかんとした表情で、エレンはこちらを見た。

頭痛は止まないが、それでも、笑顔を返すくらいの余裕はある。ならきっと、それほど大事でもないのだろう。

「で、でも、今私は、あなたにすごい負担をかけていて……」

「俺が平気だって言ってんだから、心配するな。それに、仕方がなかったんだろ?」

「それは、そうだけど。でも、負担には変わりないんじゃ」

取り乱すエレンを、私は、出来る限りの優しさで抱きしめた。

そうでもしなければ、エレンの心配は杞憂だと伝えられない気がしたから。

「大丈夫。大丈夫だから。面倒な話は、また明日しよう」

エレンの存在を、しっかりと感じる。そうするだけで、頭痛もどこかへと消え去っていくようだ。

「……大丈夫、じゃないよ、きっと」

エレンは、ぼそりと呟いた。

耳には届いていたが、私には、聞こえなかった。

 

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