あなたが、愛してくれたから 後篇

あなたが、愛してくれたから 後篇  淡夏

 

5.

 

エレンが私の脳に移住してから、私は三日の有休をとることにした。常日頃、会社からも消化するように言われていたので、良い機会だ。上司も、昨日の私の様子を知っているので、申請はあっさり通った。

本当は医者に行くべきなのだろうが、原因が分かっている以上、行く必要もない。それに、余計なことをされて、エレンを奪われては堪らない。

休日一日目。朝、起きるとエレンがいた。

「おはよう!」

エレンはベッドに座り、私を見つめていた。

「なんだ、起きてたのか」

「うん。元々、そんなに睡眠て意味ないし。その……何か、おかしいとことか、ない?」

言われて、私は自分の脳に異常があるかないか聞いてきるのだと思い至った。

「そう、だな。別に頭痛もしないし、むしろいつもより気分が良いくらいだ」

――エレンがいるから。さすがに、そんなことは口に出来なかったが。

別に強がりで言ったわけではなく、本当に、頭痛はなくなっていた。それが慣れなのか、それとも私が痛みを無視しているだけなのかは、はっきりしないのだが。

とにもかくにも、これからエレンとの時間が始まるのだ。一時の気持ちの揺らぎで、台無しにしてしまうわけにはいかない。

「今日は、どこか出掛けるか。明日も休みだし、ちょっとくらいなら遠出もできるぞ」

私の浮かれた提案に、エレンは首を横に振って答えた。

「今日は、ゆっくり休も。それに、今後のことも考えたいし。私が、次にどこに行くか、も」

「次って……。どこか行く宛はあるのか?」

返ってきたのは沈黙だった。

「無いんだな?」

申し訳なさそうに、エレンは頷いた。

聞けば、エレン自身もよく分からないままネットを彷徨っているらしい。私の脳に辿り着いたのも、偶然、元々いたサーバーに繋がりがあったからだそうだ。

私の脳に繋がりのあるサーバー。一つ、心当たりがあった。

「エレン、君が嫌でないのなら、俺の脳で暮らせば良い」

下手に他のサーバーに行けば、エレンが消される可能性も高くなる。中沢のように仕事熱心なやつは、どこにだっているものだ。それなら、私の脳で暮らせば、何も問題はない。

「でも、それじゃ負担が……」

「エレン、その話はもう良いって言っただろ?」

もう何を言っても無駄だと思ったのか、エレンはそれ以上のことは言わなかった。

結局、そのままテレビを見たり、いつものように話をしたりと、二人の時間を、ただただ過ごした。

夕方、食事の準備をしようとした時。田所から、電話がかかってきた。

『ちょっと、飯食いに行かないか?』

断ろうかと思ったが、どうしてかエレンに反対された。

「お友達でしょ? そういう付き合いって、蔑ろにしちゃ駄目だよ」

「その間、エレンはどうするんだよ」

脳の中にいるのなら、田所と会っている間も俺と一緒にいることになる。田所はエレンを認識することができない上に、さすがに、田所と話している時はエレンの相手をすることはできない。

「大丈夫だよ。睡眠……てわけじゃないけど、眠ることで、一時的にあなたの私に対する認識をオフにできるみたいなの」

「……オフにしても、消えるわけじゃない、んだよな」

それは大丈夫、と言う笑顔を見て、私は胸を撫で下ろした。

それから、私はエレンに見送られて家を出た。実質、家を出てからも一緒にいるのだから、少しおかしな話だが。

田所との待ち合わせは、“幸福堂”という居酒屋だった。私が生まれる前から個人で経営している店で、私と田所の、大学時代からの行きつけだ。

“幸福堂”に入ると、田所はカウンターに座って店の親爺さんと話をしていた。既に、ある程度出来上がっているようだった。

田所以外に客もおらず、貸し切り状態だった。

「よぉ、まあ座れよ」

勝手知ったる我が家とでも言うように、田所は私を隣の席に座らせた。親爺さんに会釈すると、歯の抜けた笑顔が返ってきた。

「レイちゃん、いつもので良いかい?」

親爺さんは私をレイちゃんと呼ぶ。私が頷くと、焼酎のロックが出てきた。

とりあえず乾杯をし、焼酎に口をつける。酔うことはできないが、それでも気分だけは味わっておく。

一口飲んだところで、田所は親爺さんに言った。

「おやっさん、悪ぃ。ちょっと、外してもらえないか?」

頷くと、親爺さんは嫌な顔一つも見せずに奥に入っていった。

しばしの間、田所が日本酒を啜る音だけが聞こえていた。

「……お前、最近どうしたんだ」

やはり、と思った。電話がかかってきた時から、そんな気はしていたのだ。

エレンのこと。

田所に話したところで、どうにかなるわけではない。そもそも、これ以上どうにもする気はないのだ。

だが――。

田所は、真っ直ぐに私を見た。真剣過ぎるその視線。本気で、私のことを案じてくれている。

「田所、信じられないような話かもしれないんだがな」

エレンのことを、話す。

そのことに、どんな意味があるのかは、私には分からない。

話し始めた時こそ、信じられないといった表情を見せたが、田所は茶化しもせずに私の話を聞いていた。

そして一言だけ、私に言った。

「別れるべき、だ」

ぐいと、田所はお猪口の酒を呑み欲した。

「……何でだ」

自分でも分かるほど、私の声は低くなっていた。構わず、田所は話を続ける。

「お前のために、ならねぇ」

「俺の……ため」

「ああ。俺には難しいことは分かんねぇが、その女が原因で、お前がおかしくなってるってのは、分かる」

田所は、勝手なことを言ってくれる。

何が、私のためだと言うのだろうか。

エレンがいてくれるおかげで、私は、生きている実感が持てる。

エレンと別れることになれば、私は、生きていくことができない。

「田所、俺はエレンといることで、やっと生きてるって実感できるんだ。それが、俺のためにならないっていうのか」

私の言葉に、田所はただ肯定の意を示した。
「確かに、身を固めろとは言った。けどな、それはお前一人だけの世界で満足するようなもんじゃぁ、ダメなんだ」

結婚にせよ恋人として付き合うにせよ、それは社会的に認められて初めて価値がある。つがいになっているから、この人は大丈夫だと、周りが思うからこそ、意味がある。

例え当人がどれだけ幸せであろうと、それが周りから承認されないものであれば、価値がないも同然だと、田所は私に言った。
「俺にはな、そのエレンて女が、文字通りお前の頭ん中の存在に思えて仕方ねぇんだ。そんなんにかまけてたら、世間から、お前がどんな目で見られるか……」
「……田所、ちょっと、黙ってくれ」

エレンが存在しない、なんてことはない。世間の目なんて、どうでも良い。

これ以上、田所の口からそんなことは聞きたくないのに、彼は話を続ける。
「本当にいたとしても、だ。同じことなんだよ。お前以外のやつには、な。それに、周りがどうの、って話だけじゃねぇ。女無しでは生きられねぇ、ってのは危ないんだよ。何かに依存して生きてるやつは、どっかで限界がくる。お前が壊れる前に、手を引くべきだ」

そこまで聞いて、私は席を立った。それ以上は、何も聞きたくなかった。
「言いたいことがそれだけなら、帰る」

言い放ち、私は机の上に万札を叩きつけた。そうして、“幸福堂”の暖簾をくぐった。

田所は何も言わず、日本酒をちびちびと呑んでいた。

 

家に帰ると、エレンがいた。私の認識スイッチを、オンにしてくれたようだ。
「お帰り」

その声を聞くだけで、肩にかかっていた重圧が消え去るようだった。けれど、胸の奥にわだかまる不快感は、抜けてくれない。

堪らず、私はエレンの唇を奪った。

エレンは一瞬強ばったものの、すぐに私を受け入れてくれた。

溶けるような、甘い感覚。私の存在を強固なものにしてくれる、どこまでもリアルな感触。

唇を離し、エレンを抱き締める。
「エレン……」

ただ、彼女の名を呼ぶことしかできなかった。エレン、エレンと、まるで馬鹿になったように。

エレンは、なだめるように私の頭を撫でる。
「ちゃんと、ここにいるよ。あなたが私を見てくれるから、ちゃんと」

そのまま、どちらからともなく、私達はベッドへと倒れこんだ。本来なら、機械の身体である私には意味のない行為。けれど、エレンが相手なら、その限りではないようだ。

私達は、理性ではなく本能で求めあった。相手を感じることで、自分自身を取り戻すように。

頭痛がした気もするが、そんなことはどうだって良い。

絶頂を迎えた後、微睡みの中で私達は話をしていた。

「このままで、良いの、かな」

ぽつりと、エレンは呟いた。
「良いんだよ」

もう一度、口づけをした。エレンが余計なことを考えないで良いように、その口を塞いだ。
「このままで、居よう。このまま、二人で……」

そうして、私の意識はゆっくりと閉じていった。

眠り落ちる前、メールの着信音が頭に響いた。

 

 

6.

 

目が覚めた。覚めている、はずだった。

見慣れた部屋が歪む。頭が、割れるように痛い。

時間感覚はとうにイカれていて、どれくらいの間動けないでいたのかは分からない。

間延びした気だるい時間、無理矢理にでも目を開けていれば、それなりに慣れは生じる。頭痛は止まないが、何とか、視界は正常に戻り初めていた。
「エレ……ン……」

名前を呼ぶ。返事は、ない。
「……エレン、エレン」

繰り返し、繰り返し、呼ぶ。
「……無理は、しないで欲しいんだけどね」

声が聞こえた。姿は、見えないが。
「ごめんね、ちょっと今は姿を見せられないの」

「ちゃんと、いる……んだな?」

うん、という返事が聞こえ、ひとまずは安心した。だが、姿を見せられないとはどういうことだろうか。

「姿を見せられない、ってどうして」

「あなたの脳に、限界がきているから」

エレンの声には、申し訳なさが滲み出ていた。

「やっぱり、無理なんだよ。私が、あなたの中に居続けるのは。だから、もう……」

「でも、ここから出ていったら、もう会えるかは分からないんだろ!」

エレンが私と会えたのは、会社にサーバーに偶然迷い込んだからだ。彼女は行き先を、完全に自分の意思で選ぶことはできない。一度広大なネットの海にのり出せば、後は流れに流されどこかのサーバーへ。基本的に、元の場所に戻ることは叶わない。

会社のサーバーに戻ることくらいなら可能らしいが、戻ったところで中沢に消されるだけ。

だから――私の脳を出て行くのなら、私達はきっと、二度と会えなくなる。

「え、エレンは……」

どうしようもなく、震える声で。

「俺と、一緒にいたくは、ないのか……?」

――俺が、好きじゃないのか?

みっともなく、そんないまさらなことを聞いた。

怖くなったのだ、エレンに見捨てられるのが。自分が、エレンに愛されてはいないかもしれないことが。

息を呑むような気配がした。

そして、沈黙。

そんなに時間は経っていなかったのだろうが、それでも、私の心を凍えさせるには、充分な時間だった。

「私は……」

エレンの声にびくりと、身体が、心が反応した。不安が、押し寄せた。

しかし。

「私も、大好きだよ」

私の不安を溶かすように、ひどく優しい声で。

「だって、言ってるでしょ。あなたが愛してくれているから、私はここにいるんだ、って。だから、私も」

――あなたを愛している。

と、満ち足りたように答えてくれた。

その言葉は純粋に、嬉しかった。それだけで、私は私という存在を、認められるようになる程に。

だからこそ、何故という疑問が浮かぶ。

「それなら、それなら、何で……」

――俺と、居てくれない。

好きなら、愛していると言うのなら、ずっと一緒に居てくれても、良いではないか。

私の気持ちは、嫌という程伝わっているだろうに、エレンは、真っ直ぐに私に語りかける。

「好きだから、愛しているから、こそだよ。私といることで、あなたは壊れてしまう。ただ、それが嫌なんだ」

「壊れるって、俺は、壊れてなんか。脳の話をしてるなら、きっといくらでも方法はあるはずだ」

見えてはいないが、エレンが首を振るのが分かった。

「壊れてるんだよ、今のあなたは。脳に負担がかかっているから、だけじゃなく。別にね、あなたの身を案じているから、言っているんじゃないの。私はね、壊れてないあなたに、愛されたかった。ちゃんとあなたに、見て欲しかった」

その言葉に、どう返せば良かったのだろうか。

私は本当に、彼女を愛していた。

彼女無しでは、生きていけない程に。

けれど、それは、自分勝手で、独りよがりなもの、だったのではないだろうか。

「俺は、俺は……」

声は、言葉には成らずにぱらぱらと落ちていく。溢れた気持ちは行き場を失くし、膿となって溜まっていくようだった。

ただただ絶望に暮れる私を、不意に暖かさが包み込んだ。

「あなたのせい、ってわけじゃない。あなたの言うことに身を委ねた私にも、責はある。私だってあなたとの時間は心地良かったの。ただ、私達はもっと話し合うべきだった。お互いに自立した存在として、向き合うべきだったんじゃないかな」

二人共、相手に依りかかり過ぎた。

相手に、自分の存在を委ね過ぎた。

だから、どちらかが駄目になれば、共倒れになってしまう。

つがいになるのなら、依存ではなく、共存でなくてはならなかった。そうでないと、相手を守ることだってできないのだから。

私は、そのことに気付かず、自分が助かることばかりを考えてしまっていた。彼女はずっと、気付いていたというのに。

「勝手なことばっかり言って、ごめんね。でも、たぶんこれ以上は限界なんだ」

そうして、エレンは、言った。

――バイバイ。元気でね。

身体を包んでいた温もりが、少しずつ消えていく。

「……エレン?」

呼び掛けに、返ってくる声は、無かった。

 

 

 

7.

 

エレンのいなくなった休日を、私は無為に過ごした。ただ部屋に在るだけで、それ以外は死んでいるも同然だった。

だから、電話が掛かってくるまで、有休が終わっていたことにも気付かなかった。

半ば無意識で会社に向かうと、待っていたのは、怒っているやら、心配しているやらで、困った表情を浮かべる上司だった。

「お前の仕事は、俺もよく分かってるんだ。少し無茶をさせ過ぎたとも思う。だけどな、全く連絡を寄こさないってのは、一体どういう了見だ!」

説教は十分程続いたが、最終的には、頑張れよ、期待しているという激励の言葉と共に解放された。

「何だかんだ、気にられてるよな、お前」

たまたま私の席の近くを通った中沢が、声をかけてきた。依然として隈は消えないものの、心なしか、だいぶ元気を取り戻したように見える。やはり、一仕事終えたから、だろうか。

「そういえば」

と、中沢は話を変えた。

「どうだ、対策ソフトの具合は?」

中沢が何の話をしているのか、瞬時には分からなかった。

「ほら、前に発見したバグの対策ソフトだよ。休みの間に強化バージョンのソフト送っただろ? 調べてみたら、何かお前の頭へ続くラインに痕跡があってな。急遽、改良に改良を加えて、お前に送ったんだ」

「そんなの、知らんぞ」

身に覚えはないが、ひどく、嫌な予感がした。中沢の言葉は、頭の中で一つの事実へと再構築されていく。絶対に、認めたくない事実へと。

中沢は、不思議そうな顔で言った。

「おかしいな、確かにインストールされた痕はあるんだけど。朝からお前の頭をスキャンしてみたんだが、確かにソフトがバグを消去……」

「すまん、中沢。少し、席を外す。まだ、本調子じゃないんだ」

そう言って立ち上がり、私はトイレへ向かった。

個室に籠り、吐いた。この身体で、そんな生理現象が起きるはずはないのだが、それでも私は、ひたすらに吐き続けた。

中沢の言葉と、私の体験を照らし合わせるなら、見えてくる事実は一つしかない。

エレンは、エレンは、もう……。

「何で、だよ……」

私は確かに、中沢のソフトをインストールしてはいない。だが、彼女なら、私の脳の中にいた彼女なら、それも可能だったのかもしれない。

何も、分からなかった。

どうして、エレンはそんな選択をしたのか。しなければ、ならなかったのか。

生身の身体にように吐き出せたら、少しは気が楽になっていたかもしれない。だが機械でできた身体では、内に溜まったものを出し切ることすら、できやしない。

十分ほどそうしていただろうか。何の気力も沸き起こらないまま、私は席へと戻った。

顔色には出ないはずだが、それでも、周りからは案じるような視線を感じた。

その後も仕事は捗らず、居るだけ時間の無駄だと定時には追い出されてしまった。

だが、真っ直ぐ家に帰る気にはなれず、何となく回り道をしてしまった。

どこに行くでもなく、ぶらぶらと。

そのつもりだったのだが、気付けば、私はいつもの川沿いの道に来ていた。

エレンと、初めて出会った場所。

それから、二人で会うのはいつもこの場所だった。

だから、ここに来れば、いつでも彼女に会えるのではないかと。

どうしようもなく、思ってしまったのだ。

思いつく限り、彼女といた場所で、彼女の姿を追い求める。

情けないとか、女々しいとか。そんな外聞は、どうでも良い。

会いたい、だけなのだ。

想い出を辿る内に、知らず、家の前に辿り着いていた。

ほんの数日前まで、扉を開ければ、エレンがいた。

だから今は、扉を開けるのが怖い。

期待する気持ちとは裏腹に、頭では嫌というほど理解している。

それを確かめるのが、怖い。

立ち竦む私の肩に、ぽんと手が置かれた。

「よぉ、呑もうぜ」

いつものようににやけながら、それでも、どこか私のことを案じるように。田所は、私の目の前にいた。

「まあ、何だ。とりあえず入ろうぜ。春先でも、ちょっと寒いわ」

わざとおどけた調子の田所に誘われ、私は部屋へと入った。

現実との直面は、やはりこたえた。

聞こえるはずの声は、聞こえない。

見えて欲しい姿は、見えない。

座ってからも、私は、何も話せなかった。何も、話したくなかった。

話さないでいると、どんどん自分がなくなっていく。はっきりとした輪郭を失い、薄れていく。数日前まで確かに存在した、彼女のように。

自己の喪失に対して抱いていた怖れは、もう、ない。たぶん、このまま存在したところで、意味はないのだ。

私は、生きている意味を失ったのだ。

沈黙が、部屋の空気を支配していた。だが、その沈黙に痺れを切らした男がいた。

「あーあ、たくっ、しっかりしろ」

そう、やけっぱち気味に言うと、田所は一升瓶を瓶のまま半分まで呑んだ。ああ、こりゃ効くぜぇと目を閉じ、苦しんでいるのか、喜んでいるのか分からない声を上げた。

「俺の生き方なんて、こんなもんよ。きっと酒に溺れて死んでいくんだろうよ。最後の方は、自分のことなんて分からなくなってな」

そう言って、残りの半分を空にする田所。ぎゅっと瞑る目は、何かにしがみついているように必死で、生というものを、噛み締めているようだった。

「でも、俺ぁ、幸せだろうよ。自分の身体で死んでいけるんだから。周りには迷惑かけるだろうがよ、それでも、みんな俺が死んだっって分かってくれる。他の誰でもねぇ、この俺がよぉ」

お前はどうなんだ。そう田所は問うた。

「お前の身体は、確かに自分のもんじゃぁねぇ。でも、お前は、その身体で生きてるだろうがよぉ。なら、お前らしく生きて、死ねるじゃねぇか」

酔ってはいるが、彼の目は本気だった。本気で、私にどう生きるかと聞いているのだ。

「俺は……」

分からないと答えた。それは本心だ。私は、この身体で、自分が何をしたいのかなんて、考えることもできなかった。

はっきりしない回答に、田所は、それでも良いんだよと言った。

「分からないならなぁ、考えろ。それで、見つからなくたって、意味の一つやぁ二つ、簡単にできるんだよ。人生なんて、きっとそんなもんだ。それに、見つからなくたってもなぁ、俺が生きてる間ぁ、俺も考えてやらぁ」

そう言って、田所は空の一升瓶に口をつけ、何だよ、もうないじゃねぇかと悪態をついた。

田所の言葉は、素直に響いた。

エレンがいなくなった悲しみを、私にはどうすることもできない。納得なんてできないから、全てを放棄して、楽になりたかったのだ。

だがこの友人は、私の気持ちを感じ取り、それでも苦しめと、優しい言葉をかけてくれたのだ。

生きる理由なんてない。

生きなければいけない理由もない。

――けれど、私という意味を与えてくれる人は、まだいるようだ。

私は、田所にエレンとの顛末を話そうとした。

話している途中、何度も、こみ上げてくるものがあった。抑えることができずに、嗚咽をもらし、話を続けることは、できなかった。

そんな私に、田所は言った。

「今夜は、呑もうぜ」

 

 

 

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